過去に書いたもの①

実はクリスチャンなのですが、日本で所属する教会に「平和を考える会」というものがあり、その季刊に寄稿することが、これまでアメリカにいながら日本語で書く唯一の機会であったと思います。平和について、好きなように書いて良いと言われており、非常にフラットな季刊です。まずは、この季刊に寄稿した際の文章を記念としてここに残しておこうと思います。以下は、2018年に書いたもので、今話題のBLM運動についても触れました。その時はアメリカでもBLMはメジャーとは言い切れず、今では日本においても話題になると知って(報道の内容の正確さは別として)、若干驚いています。

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   次々と人事変更が繰り返されるホワイトハウス、止まらない銃乱射・暴力…。トランプ政権が始まってからの1年、アメリカ社会はまさに「不安定」です。トランプ大統領やその支持者たちは、多様性・マイノリティーの社会的進出に「待った」をかけようと時計の針を戻そうとする中、それに対しても「待った」がかかる――アメリカ社会は「アメリカらしさ」とは何か、自問自答を繰り返し、葛藤しています。
   こんな状況で平和は実現するか?そもそも「平和」とは何か?ある人は、暴力が無い状況を「平和」と呼びます。この定義に基づくと、暴力に加担する(と見なされる)すべての人々が非難の対象となります。例えば、警察の黒人対する暴力・差別に抵抗するBlack Lives Matter (BLM)という若い黒人たちの社会運動について、一部の人々は彼らの抵抗運動を暴力的だとして「テロリスト」と呼び、非難しています。日本でも、安倍政権に批判的な若者グループSEALDsが誕生しましたが(解散した現在も元メンバーが様々な団体で活躍しています)、各地でデモを繰り広げる彼らは過激であると非難されました。
   これらの抵抗する人々を非難することで暴力を取り除くことは平和に繋がるのでしょうか。仮に平和が訪れたとしても、この「平和」は誰のためのものなのでしょうか。私たちの多くは、誰かの権利が制限・はく奪される時、あまり影響を感じない立場にいます。遠くて起こっている出来事のように感じます。なぜ、「平和」を犠牲にしてまでも抵抗し、戦い続ける人々がいるのか、なかなか理解できません。しかし、彼らは本当に平和を犠牲にしているのか――平和について考える時、この点について考えるべきではないかと思います。
   2月、フロリダ州の高校で銃乱射事件が発生し、17人の生徒が亡くなったことをきっかけに、一部の生徒達がアクティビストとして立ち上がり、銃規制を訴え、アメリカ中で賛同する若者たちがデモに参加しています。日本でも、安倍政権の公文書改ざん問題をきっかけに、今まさにデモに参加し、声を上げている人々がいます。「なぜ彼らは声を上げるのか」と考えることは「すべての人々にとっての平和とは何か」と考えることに通じるのではないでしょうか。

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