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国葬の是非

安倍元総理が亡くなり、2ヶ月が経つ。

私は恥ずかしいことに政治の話は難しくて昔からちょっと苦手。安倍元総理に対しても特別なんらかの感情もない、が、国葬批判については考えてしまう。


先日国葬の概算公表されてから、さらに反対意見や、反対とまではいかないが「(教育や福祉や、現在の生活にお金をかけないのに)それちょっとどうなの」を目にする機会が増えた。

私も2児を育てる母であり、さらには母子家庭という環境、けして余裕があるわけではなく今後かかるであろう教育費には頭を抱えている。

でも、それとこれは違う話でなかろうか。
国葬はやればいいし、子どもにかけるお金も増やしたらいい。社会福祉も充実させればいい。別にどちらかである必要はない。また別の話。

今さら、国葬を否定して何になるのだろうか。
誰の何のためになるのだろうか。

死を持って、生前の行いが清算されるとは思っていない。きっと、この人によってつらい思いをした方もたくさんいるのだろう。そのような人たちが否定するのは、仕方ないかもしれない。
ただ、その反対意見(で、あればいいが中にはただの誹謗中傷も多い)それを見るのは全くの無関係な赤の他人か、今も悲しみや損失感で苦しむ遺族だ。

この世から離れてしまった相手には、もう二度と恨みつらみも、感謝も、伝わらないのである。
どんな感情だとしても、それを抱えて生きていくのは自分自身で、どこにどんな風に投げつけようとも絶対相手には届かない。


以前葬儀会社の営業をしていて、上司から教えてもらったことの一つは
お葬儀は「こんなに立派な形で送り出してあげることができた。」という遺族が前に進むための儀式であるため、遺族が後悔するようなお葬儀をさせてはいけない。

国葬という形で送りだした、という周囲や元総理を想う人たちの気持ちがきっとこれで救われるところがあるのだろう。
今後もきっと長く語られていく、その最期を綺麗に飾って送り出すためなのだろう。

訃報に接した方々はお葬儀に出たり、お仏壇に手を合わせたり、お墓参りに行くことが多いでしょう。(そうでない宗教もあるとは思いますが。)
わざわざ出向かなくても、想い、手を合わせる行為そのものが大事だとも思う。

でも、お墓で、お仏壇で、故人が“いる場所”で手を合わせることが心にポッカリ空いた穴を埋める方法だったりもする。
現に私が、今は亡き大切な人に対して頭の中で話しかけるだけでは足りず、お墓に向かうことがたびたびある。
“ここに行けば、いる”という場所があるのは私にとって、とても重要で心の支えとなっている。

儀式や場所の重要性は、“生”よりも“死”で強く感じることが多い。

このような影響力の大きい方、更には親近者のみのお葬儀だったようなので、この国葬という儀式によって心が救われる方も多くいるのではないかと思う。


(なんだかうまく締められない…)

来月行われる国葬が、どうか穏やかに弔う時間となりますように。

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