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アイデンティティってどこにあるんだ?

今日は中村真一郎さんの『夢の復権』でした。

筆者と二人の女優さんにまつわるエピソードが出てきます。

一人目は舞台終わりの女優さんが化粧を落としてしまうと、そこには疲れ切った全く別人の顔がありました。
筆者はそれに衝撃を受けますが、すぐにいつも通りの魅力に満ちた美貌が化粧をすることで戻りました。

二人目は半盲に近いほどの近視の女優さんが、初めてコンタクトレンズをつけた時のことです。長い付き合いがあった彼女が
「あなたってこういう顔をしていたのね」と驚きの声をあげました。コンタクトを外した彼女は、いつもと同じように爽やかな微笑みで筆者を見ており、何ともわからないイメージの塊に微笑んでいるのでした。

これらのことから、筆者は、顔は記号として固定して利用しているのであって、現実を見ると、実際の顔は流動的だと述べています。

この話を読んだ時に、「顔=その人そのもの」という価値観があったため、自分のことがさらにわからなくなるな、と思いました。
話にも出ていたように、女性は特にメイクで自分の好みの顔に近づくことができます。
ですが、この「好みの顔」が時代や自身の変化によって異なりますよね。平安時代の美人の定義と2020年の美人の定義は全く違います。
だから、自分の顔は自分を表現する一つの手段にもなるけれど、確固たるアイデンティティかどうかは人どれぞれだと考えられます。

二人目の女優さんの話は、実際に私も同じようなことをしていました。
中学生だった私は。丁度目が悪くなってきて眼鏡を作るかどうか迷っていました。
いざ、補正視力で世界を見ると、生活しやすいのはもちろんのこと、好んでいない自分の顔さえもはっきりと見えるようになってしまいました。
いつの間にか、自分の顔さえも想像で補っていたため、自分の顔を見るのが嫌で、あえて眼鏡をかけずに生活をしていました。
このことを思い出して、「人間は自分の見たいように世界を見ている」ということを痛感しましたし、想像上の自分と現実の自分に乖離がある時、自分の思う自分らしさを他人は理解し得ないことがわかりました。
考えだすと頭が混乱しますが「自分がどんな人間であるか」は自分でも決められるけれど、それが伝わっているかは怪しいし、相手からも決められるものなんだということが府に落ちました。

これまで、誰かに自分の存在を知らしめるためにアイデンティティが必要だと考えていましたが、そうではなく、自分のためにあるものなんですね。ちょっと哲学者になった気分。

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