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マジョリティに流されず人間性を保てるか


今日も現代文の問題を解いたんですが、結構考えさせられる内容でした。

野坂昭如『本多勝一「殺される側の論理」についての解説文』
この文章は、「殺される側の論理」という本に付された野坂さんの解説文、という位置付けです。ちょっと初めはわかりにくいですが。

出口先生のシステム現代文 実践演習編に載っていて、解説の動画もあったので、ぜひ。

野坂さんについて調べたところ、ジブリ映画「火垂るの墓」の原作の作家さんでもあり、放送作家や「おもちゃのチャチャチャ」などの作詞も手がけ、落語もできるというマルチな方。
作品はいくつも知っていたのですが、お名前は存じ上げず、恥ずかしい限りです。

さて本文についてです。
「殺される側」とあるように、殺す側との対比がされているわけです。筆者は空襲で近所の知人が被害に遭い、家族を栄養失調などで亡くします。そんな中自分が生き残ることで、日常と大勢の人の命を奪う空襲とのギャップを感じ続けます。
この経験から実際に空襲を行った米兵に話を聞いたところ

異口同音に考えないといい、何人かは「考えてはいけないと教えられていた」と答えた。僕は生首を思い浮かべた。
(*空襲で近所の娘の生首が瓦礫にあるのを筆者は思い出している)

筆者のこの体験も加わり、生き残って発言することのできる殺す側の論理ではなく、逆の「殺される側の視点」で物事を見なければならないと気づきます。大勢を殺すのに、何も考えないということは、殺す実感が薄い。現代の戦争では殺される側もまた殺される実感が薄いのだと言います。

これを現代に置き換えるとどうなるか。
いじめの問題、社会的弱者への待遇、最近の情勢を利用して悪徳な商売をすることなど、想像力を働かせれば解決される問題につながると考えました。相手を考えないことでいつの間にか加害者になっていないだろうか?周りに流されて、サイレントマジョリティーと化すことで想像力、思考力が破綻していないだろうか?相手側の立場を取るということは、自我を消す必要があり、意外と難しいことだと思います。

生きているのであれば、自分の信念を貫ける、誰か一人でいいから守れるカッコいい大人であれるか、考えさせられるものでした。

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