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【掌編小説】月が綺麗ですねと言った哀しき女

「ねー、ママー、月にうさぎがいるってほんと?」
と一緒にだんごを食べている我が子に尋ねられて、
指さして教えるために、ベランダに出て、月を見た。

見事な中秋の名月に、私の中の別の記憶が呼び起される。

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本当か嘘か、諸説あるけれど、
アイラブユーを夏目漱石が「月が綺麗ですね」と訳したという。

ちょっと洒落させすぎてるし、だれかの創作だろうという声があるけども、
その訳は
あながち間違いじゃない、と私は思う。

仲良くしていた男友達がいて、当時、複数人でたまに会うような関係性だった。
私はほんのり好意を抱いていたけれど、
相手はそういう目では見てないんだろうことは感じていた。
そして、彼には彼女がいた。

それでも接点があることは嬉しくて、ゆるく繋がり続けていて、時折メッセージのやりとりをすることもあった。
あくまで友人のひとりとして、私のほのかな恋心を伝えていなかった。

それからしばらくして、
彼が転勤になって、地元を離れることになった。
その影響もあったのだろう、彼女とも別れたと本人から聞いた。

「やべー、俺、まったく馴染みない土地にきてしまった。寂しい」

彼はそうメッセージの中で漏らした。
これまではグループで集まっていて、グループ内でしかメッセージをやりとりしたことがなかったんだけど、私が彼の誕生日におめでとうのメッセージを送ったのをきっかけに、ふたりだけでラリーをすることになっていたのだ。

メッセージで送り合う内容は、
新しい環境でなかなか馴染めないこと、漠然とした不安、仲間内の集まりで楽しかった日々の思い出話とか
他愛のないこと。

ちょうど私も、仕事で異動したばかりで、転勤ほどではないけれど、慣れない環境で不安定な日々だった。
だからこそ、彼とお互いに共感できること多かった。

仕事がハードな一日の終わり、終電間近の電車に揺られているころ、彼からポンッとメッセージが届く。
それが嬉しくて、私もポンッと返す、するとすぐにまたポンッと彼からも返ってくる。

電車を降りて、家まで歩く10分間、闇夜を照らす満月を見ながら、彼とラリーをするその時間が愛おしかった。
それからというもの、満月を見ると彼のことを思い出すようになってしまった。

月夜の楽しみがあったとしても
遠距離な彼とは、恋愛関係にはなるには難しく。
ただただ、たまにメッセージを送りあうだけ。

ある日、めずらしく彼から電話がかかってきた。
メッセージのやりとりばかりだったから、なにごとだろうと電話を取った。

「俺だめだわ、全然仕事できない」

どうしたの?と尋ねても、ため息と、だめだ、だめだというばかり
なにやら仕事で大きな失敗をしたらしい。

「ごめん、あんまりにも落ち込んだから、心許した人に弱音吐きたくて」

私はうん、うん、とただ話を聞くだけ。
こんなとき、中途半端な励ましの言葉は求められていない。

ちょうど私は家の窓から見える月を見ていた。
遠く離れた彼も月は見えるはず、そう思って言った。
「ねえ、外見て。月が綺麗なんだよ」
中秋の名月だった。

ふと、夏目漱石の「月が綺麗ですね」を思い出して、勝手に恥ずかしくなる。

電話口から、カラカラカラと窓を開ける音がして、
「……いや、こっちは 雲に覆われててさ、見えないんだよ」

そっかー、そうだよね、場所が離れてると天気も違うもんねーなんて言ってそれから少し話して電話を切った。

見事な中秋の満月と
虚しい「月が綺麗ですね」だけが漂っていた。

それから、彼が結婚するときいたのは、数週間後だった。

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「ほら、うさぎの餅つき」と子供たちが月を指さしながら笑っている。

幸せな今、普段は思い出しもしないけれど、
中秋の名月を見ると
あの若かりし頃の淡い恋心とあのバカ野郎のことを思い出す。




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