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リバー・フェニックスがいた日々のこと



リバー・フェニックスという俳優をご存知だろうか。

1980年代に一躍スターの座に躍り出て、23歳で亡くなってからもなお輝き続けるアメリカの映画俳優だ。

そして、私が人生で初めて別世界の人に心を奪われた、その相手でもある。

今日、10月31日は、リバーの命日だ。



私がリバーを初めて知ったのは小学生の時だった。
両親に連れられて、当時上映されていた映画「スタンド・バイ・ミー」を観に行ったときだ。

その時の衝撃を今でも覚えている。
スクリーンに映し出されたリバーを見て、


「え…………………?」


となった。


「言葉を失う」とはこのことだ。
息を飲んでその姿に釘付けになり、一瞬も目を逸らすことができなかった。

自分の中の理想以上の理想を、そのまま具現化したような人が目の前に現れたのだ。

戸惑い、心の全てを持って行かれる感覚に陥った。

パンフレットは穴のあくほど読み込んだ。




その日からリバー一色の日々が始まる。
恋焦がれ、脳を侵食され、寝ても覚めてもリバーのことしか考えられず、どうやったらリバーと結婚できるかを真剣に考える毎日。

インターネットもなかった当時、リバーに会えるのは映画雑誌の中だけだ。
私はお小遣いをはたいて雑誌「ロードショー」と「スクリーン」を買い続けた。

ロードショーはたしか580円くらい、スクリーンは630円くらいだった気がする。高かったので本屋さんで雑誌を立ち読みしてその都度どちらを買うか決めていた。いまメルカリでロードショーを検索したら私も持っていたリバーの表紙の号が出品されていて懐かしさに胸が震えた。(画像はTwitterから)



当時、同じクラスにスタンド・バイ・ミーを観ていた友達はいなかった。
ジャニーズ全盛期、光源氏に夢中の友達にリバーのことを説明しても「ふうん」でおしまい。

でもひとりだけ、「マイコが言ってたスタンド・バイ・ミー、観てきたよ」と言ってくれた子がいたのだ。
その子は芸能活動をしていて子役として映画に出ており、映画自体に興味がある子だった。

それまでは特に仲良くはなかったその子と意気投合し、その日からずっと一緒に過ごした。

その子はどこからかリバーの生写真を仕入れてきて私にくれたりしたのだが、それがどんなに嬉しかったか。。(数年間お財布に入れて持ち歩いていたが、今もたぶん家のどこかにある)

その子は共演していたゴーディ役のウィル・ウィートン(左端)が好きだった。
当時のリバーの恋人、マーサ・プリンプトンはショートカットだった。その頃たまたまショートカットにしていた私は「リバーはきっとショートカットの女の子が好きなんだ!」と解釈し、「よし」と自信を付けた。
菜食主義だったリバーは、マーサがレストランてクラブハウスサンドを注文したためショックで泣き出したという話は有名。私は「私ならリバーを泣かせたりしない」と菜食主義を目指したが、両親がそれを許すはずもなく、仕方ないのでリバーに会った時だけ菜食主義になることを誓う。
画像:https://www.fable-mg.com



少し経ってから私は何度もひとりで映画館に行きスタンド・バイ・ミーを観た。

当時は三軒茶屋シネマという古い映画館があって、公開から時間が経った作品を二本立てで上映していたのだ。

その頃は入れ替え性ではなかったので、映画が終わってもそのまま座席に座っていれば何度も同じ映画を観ることができた。(二本立てのもう一つも観ることになった)

私は古くて固い椅子に座って何度もクリス(リバー・フェニックス)を観た。

ゴーディの隣で泣くクリスの姿を胸に焼き付けた。

大人って最悪だな、と思ったシーン
古くて薄暗い映画館に小学生の女の子がひとりで行くなんて親は心配していたが、どうであれ、私は隠れてでも行ったに違いない。母は自分が蒔いた種とはいえ、娘が俳優に夢中になりすぎていることに一抹の不安を覚えていたようだ。



リバー・フェニックスを語る上で避けて通れないことといえば、カルト信者だった両親の元で過ごした壮絶な幼少期だろう。

幼い頃からの集団生活の中で性的虐待が当たり前の毎日を送っており、4歳の時に童貞を喪失したとされている。

これらのことを当時のロードショーで知った私は衝撃を受け、自分の生活とは次元の違う世界の話に打ちのめされた。

それと同時にどんなに怒りに震えても私がリバーを助けることはできないのだという現実に、その無力感に、絶望したりしていた。

ショックを受けることしかできない、リバーにとっては「無」でしかない自分の存在に失望した。


リバーの生い立ちを知るにつれ、その全身から漂う切ない空気に納得することとなる。

その目は、全ての状況や人々の感情を受け止めて飲み込んだようなーーいや、相手の心を真っ直ぐ見つめて真実を読み取ろうとするかのようなその眼差しに、私は惹きつけられずにいられなかった。

その雰囲気はあとから思えば「色気」だったのだろう。男の色気の元は「憂い」だと思う。
画像:https://www.fable-mg.com



そうこうしているうちに月日は流れ、少しずつ私は現実世界のことや周りの人たちのことで忙しくなり、ロードショーもスクリーンも買わなくなっていった。



1993年10月31日のリバーの死は、翌朝のニュースで知った。
先にニュースを見た母が私の部屋に知らせに来たのだ。

私はベッドの中で

「そうなんだ」

と答えた気がする。


悲しいという感情は湧かなかった。
その死は自然な気がして、なるほど、というか、そうだよねと納得してしまったのだ。

リバーの死については、到底ここでは書ききれない。



私が有名人に恋焦がれたのは、後にも先にもこの時、リバー・フェニックスだけだ。

過酷な運命を背負わされながらも真っ直ぐに生きたリバーのことをーーリバーを好きだったというその事実を、私は拠り所としていた部分はあると思う。

でも一方で、勝手に支えにして感謝なんて感情を抱いてしまうことが、リバーを消費しているだけな気がして落ち込む。


でも仕方ない。
私はリバーが好きだったということを、好きだったあの日々のことを、これからも大事に胸にしまっていくだろう。

リバーは、私の少し早めの青春だったと思う。
これからも何かあればその思い出をそっと開けるのだ。

あの日、あのとき、あの大きなスクリーンで、あなたに出会えてよかった、と。



※この記事は、本当は8月23日にアップしたかった。
リバーの誕生日だ。

生きていたら今は52歳だそうだ

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