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足が止まってしまった

病を抱えながらも学びを進めていたら、ついに足が止まってしまった、という話。


通信大学の精神保健福祉士コースに入るまで

十代のころ、わたしは混沌としたところにいて、なかなかに大変な思いをしてきたなあと今になってもおもいます。精神科病院への入院も長く、それからずっと通院を続ける中で、医療トラウマやスティグマがすっかり根づいてしまいました。希死念慮のない日は一日もなく、ずっと苦しいままでした。

けれども、そんな中を、一日一日つないでいたのは、ことばのちからだったようにおもいます。詩と小説に支えられ、またわたし自身、吐くように、ことばを書き続けました。そのことばは、詩だったり、日記だったり、手紙だったりするわけですが、書くという行為がわたしを支える杖だったと、それだけは確かとおもえます。
そして、ことばの力としてもうひとつ、前主治医との「長い長い対話」がありました。その対話の中で、わたしは育ってきました。救いとスティグマのどちらもが、その対話にはありました。

わたしのことばの力はこうやって育まれ、わたしの血潮となりました。また、わたしを苦しめる心の世界について、美しい瞬間があることも知ります。わたしは詩や小説にのめりこみ、やがて、詩集を1~2冊刊行する運びになります。

けれどもなかなか仕事にはなりません。そのうちに、二十代半ばで結婚、しばらくして子どもが生まれます。四次元ポケットみたいに次々と、合わせて三人。日々は、子どもの泣き声でいっぱい。わたしも、いっぱいいっぱい。
今まですがってきたことばには、なかなか手が届かなくなりました。求めることさえ苦しくなった。求めても、求めても、かなわないくらいに、毎日が疲労と子育てで埋め尽くされた。かなわないということさえも苦しくて、読みたいたくさんの本と、書くための筆を、ここでいちど捨てました。

やがて、家におむつのない生活になり、子どもは昼間、学校や幼稚園へ通う生活となりました。まだ身動きは取れないけれども、今のうちにやれることやっておこうかな、とおもいました。
そのときのわたしなりに、いろんなことを考えたとおもいます。自分にできること、できないこと、いままでのこと、これからのこと。わたしのもつ病のこと、病をもつ友人のこと、これから出会いたい人、たどりつきたい場所。いまあるお金、これからかかるお金、何物でもない自分、ささやかな希望。書きものをすることで、暮らしていけたらどれだけいいだろうとおもうのですが、それはとりあえずまだ叶いそうにないこと。

公認心理士を目指して心理学科に行きたいきもちもあったのですが、大学卒業後さらに二年(大学院二年ないし指定施設での実務)かかることを考えると、精神保健福祉士の取得を目指すことのほうが現実的と判断、通信大学を選びました。安くて、近くて、資格が取れるんならいいかな、などとおもって。少し時間をかけてでも大学を出て、そうしてなんとか働きたいと考えて。

学びを進める足が止まってしまう ――複雑性PTSD(医療トラウマを含む)の影響

そして、通信大学生になって4年が経ちました。カリキュラム的にはようやく半ばを過ぎたところです。そのあいだに、自身のPTSD課題にも取り組み改善を図りましたが、授業内容が引き金となって倒れてしまう(高熱のときと同じように、2~3週間ほど寝込む)ということが大きく三度ありました。わたしも主治医も、暴露療法(安全な状況で、何度も同じ刺激にさらされることで、慣れていくという方法)みたいに慣れていくものだと思っていたのだけれど、三度目にようやく立ちあがったときには、わたしは今までにないほど怖くなってしまって、足がすくんで動けなくなってしまいました。これ以上、同じことで苦しみたくない、と身体が訴えてくる。なるほど。

二進も三進もいかない中の「一進」 ――いま取り組んでいること

さて、どうしようかと考えました。どうなるかはわからないけれど、いくつかの選択肢を握りしめて、少しでも進めたらなともがいているところです。

①合理的配慮を探る
当時、とある大学院の聴講生として数か月ほど通う機会がありました。福祉の大学院とあって、合理的配慮を獲得してきた障害をもつ方々の話をたくさん聴きました。人権を訴えることや、合理的配慮について行動することは、自分自身のためだけではなく、未来の子どもたちのためでもあるということなどを知ります。
それからわたし自身の所属する大学にかけあい、合理的配慮についての話し合いを申し込みました。話し合ってはもらえますが、特になにも配慮をしてもらえない様子でした。
けれども主治医は、合理的配慮をもう少し求めてもいいのではないか。津波の映像を流す際に「津波の映像が流れます」といった配慮くらいはなされるこのご時世、同じ程度の配慮はしてもらえるはずだと言ってくださり、書面をまとめてくれることになりました。
このあと、書類作成後、もう一度大学へ(今度は別の窓口へ)話し合いに行く予定です。わたしにとっての「津波」が含まれる授業について、どうすればショックを減らせるのか、自分自身でもアイディアを練らなくてはなりません。

②自分の症状を落ち着ける
医療トラウマについて、主治医から、PTSDを専門とする臨床心理士を紹介されました。たったひとつの問題は、カウンセリングは医療ではないので、全てを実費で支払う必要があるということです。安くはない。そこで実は、何か月か躊躇していたんです。

けれども、この話の流れとは全く別に、家族の問題についてまでも浮上します。とても手に負えないほどで、とにかく信頼のおける人に助けてもらわないことには、もう生きていかれないほどに追い詰められてしまいました。そんな、複数のニーズと、その緊急性に背中をおされる形で、カウンセリングに取り組むことにしました。

いわば、人生のかかった話として、安くはないカウンセリング費は「わが命を救うための手術代」とみなすことにしました。

先日、第1回目のカウンセリングを終えたところですが、わたしと家族の背景をざっと解きほぐし、お見立ていただき、まず手始めにどの問題から取り組むかということを決定し、終了しました。
驚いたのは、わたしの「倒れてしまう」ということについて、「自分の身体なので、訓練すればコントロールできるようになる」ということでした。二十年くらいかけて自分なりに改善ははかってきましたが、もうこれ以上は無理かと思わされることの多くなってきた近頃でしたので、これはとても希望を感じました。

③ゆっくりと、学びを進める
学びは、わたしをスティグマから解放する、大事なことでした。
「わたしがおかしい」というよりは、時代に巻き込まれてしまったところが大きかったこと、世界から何度も勧告を受けている日本の精神医療であること、日本における人権感覚はまだ未熟で育っていないということ、病や健康はひとつの身体に帰結するのではなくとりまく環境を含むことだということ、そのひとつひとつがわたし自身を自由にした。だから、学びを止めたくはないという思いはあります。
そうして、やがて、同じ苦しみを持つ人と、分かち合えたらという願いがあります。

④けれど、足はまだ止まっている
ほかのことがどの程度進むかで、選ぶ選択肢は変わってくるんだろうとおもいます。

精神保健福祉をやめて心理に進路変更してもいいし、まったく関係のない仕事をしながら書きものをしたっていいんだよな。そうやって、いまある心の傷を回避するように、考えていたりもします。

風通しをよくする

いまできることは、できるだけ風通しをよくして、よい気を感じるほうへと自分を連れていくことかなあ、とおもいます。ピアノを鳴らし、書きものをし、気立てのよい友人に会い、信頼できる先生のカウンセリングを受け、そうやってエネルギーをためている、そんな感じがします。

通信大学でさえ不登校状態になるとはおもわなかったけれども、大人になってもこうやって、心がぽきっと折れてしまうこともあるし、けれども志や願いは消えてなくならない。こうやってわたしのリカバリーは続いていくのだと、小さくおもいます。

聞いてくれて、つながってくれて、ありがとう。おかげで、書き続けることができます。