結婚前にはまったく気がつかなかった、うちの旦那のすごいとこ ”暮らしのちから”


一緒に暮らして7年、結婚して5年、息子が生まれてからもうすぐ3年。
この間、うちの旦那さん(ヤギさん)に対して、すごいな、この人と思う率が飛躍的に上がっている。

そして、この「すごいな」は私ひとりの感覚を超えて、意外に人類にとって大事なことを含んでいるんじゃないかと思うようになってきた。

せっかくだから、この敬意が消えてしまう前にまとめてみようと思う。

すごいその1:メシがうまい
息子が生まれるまで「男は台所には立たない」とか言って洗い物だけを担当していた人が、必要に迫られてメシを作ったら、圧倒的に美味かった。
「料理が上手」というのとはちょっと違う。見た目とかはそうでもない。
流行りの「映え」さは全然ないw 
が、彼がつくるメシを食べると元気になる。
なんでかわからないが、お腹以外も満たされる。
カンボジアに暮らす仲間たち界隈で「ヤギ飯」という固有名詞ができるほどに、彼のつくる飯には人をあたためて「ああ今日もいい日だった」と思わせるちからがある。

仲間界隈の独身男子たちから「そろそろヤギさんの飯が食べたい」とラブコールがきたり、「こないだ気がついたんですけど、ヤギさんの飯って、うちのオカンの飯に似てるんですよね」と言われたり。

先日は村の家からもらってきたヘチマとパパイヤを入れて彼が作ったカレーをいつもお世話になっている村の家族に持って行ったら「ヤギのつくる飯はうまい」が、ついにそこでも共有された。

彼はさっぱり自覚していないが、世のオカンたちがほんのり込める飯への愛を、自然にいろんな人へ出せるというのはすごい。
「愛」とかいうと、彼は鳥肌立てて逃げ出しそうだけど、このゴーヤ、何にしたらうまいかなーとか、今日は若者ばっかりだから安くて腹がいっぱいになるのは何かなーとか考えているときに出ているエネルギー、それはもう断然、愛そのものだと思う。

すごいその2:掃除をする
掃除への情熱がすごい。
徹底的にやる。午前中はほとんど掃除にかけると言ってもいい。
不精な私の「必要なところだけ日々ちょこちょこっと掃除する」戦法ではなく、まさに隅々までだ。
時々、「掃除より先に、あの人へ送る資料作ってよ・・」と心の中で思ったり(顔に出たりも)するが、掃除が完了したあとの家や部屋は確かになんだか澄み渡っていて、そこにあるものたちや空間も喜んで、元気になっている気がする。
そればかりか、心なしか空間全体があたたかくなって、一体感がある。
いつもより明るく感じる。
この家と、このものたちと”一緒に暮している”、という感覚になる。

この人の近くにいると、”暮らす”や”生きる”に自然と目が向くように思う。
そして、それは意外に楽しい。

すごいその3:DNAレベルで前向き
もともと、そんなに人のことをとやかく言う性質でない。
自分にとって絶対に許せないことがあっても、それを人に押し付けることはない。
驚くほどに前向き。

よく私もポジティブですよね、と言われることがあるけれど、
私の前向きさが「どんな状況でも明るい未来を探していく」型だとしたら、
彼が持っているそれは「人類のDNAに刻まれた本能」という感じだ。

昨日も、もうずっと音沙汰がなく失踪疑惑まで出ていた知人と久しぶりにメールでやり取りをして、でもあまりの素っ気なさと不親切さに私がプリプリ怒っていたら、それを聞いた彼の一言は、
「まあ、でもいいじゃない。連絡きたってことは、生きてるってことでしょ」と。

いやー、普通そのレベルで喜べないよ・・と思いつつ、話しているうちに
確かに仕事上のやりとりでみたら、お前このやろー!だけど、
この青空の下のどこかで彼がまだ元気に(たぶん)生きているって考えたら、それはいいことだよね、と振り上げた怒りの刃を持っている手の力が抜けてくる。

そういう怒りややり場のないエネルギーから学ぶこともあるから、力を抜くのが良いばかりではないけれど、いっときの怒りの刃に任せて相手に斬りかかったり、自分が鋼鉄のアルマジロになるより、ずっといい、と過去の自分の失敗たちが口を揃えて言っている。

だから、最近は何かのきっかけで、自分の中でもののけ姫の祟り神のうねうねがざわざわっとうごめく時には、まずうちのヤギさんに一旦預けてみることにしている。全く違う、もっと本質的な何かが、そこに見えてくる気がするから。

きっと氷河期とか隕石とか抗えないほどの大事件が起きて、世界が大ダメージを食らっても、
「まあ、こっからでしょ。残ってるものもあるから、なんとかなるよ。
じゃあ、ちょっと食べるもの探しに行ってくるわ」とか言って、そのへんにある棒とか持って出かけて行きそう。
そんでその淡々と普通な背中に、知らずに勇気づけられる人がいそう。


こんな風に書いているけど、私たち仲良し!ってわけでもない。
お互いに舌打ちしたり、小声ではぁ?って言ったりすることも多々。
でも時々「旦那さんてどんな人ですか?」と聞かれたり、自分たちの暮らしについて仲間たちと語ったりする時にちょっとずつ言語化されてきたことを集めてみたら、私がカンボジアという国に生きる人たちから学ばせてもらいたいと思っていたことと旦那さんが持っている要素が面白いほどに重なっていた。

”暮らしに宿るちから。生きることの豊かさ。”

興味と感動がそこにあるから、それを発見するのか。
それとも、何かに導かれているのか。

面白いのは結婚した当時は、そんなこと全然気づいていなかったという不思議。そんで、当のヤギさんはたぶん、ここに書いていることなんて、いまだに全然大して考えてないってこと。

サポートいただいたら、私たち家族とその仲間たちのカンボジアライフがちょっとほっこりします☆