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鍋の旅、あるいは旅する鍋

あるものを手に取ってそれに思いを馳せるとき、そのモノとの出会いや、経てきた時間が蘇って、思いがけず長い記憶の旅に連れ出されることがある。

夫が作った絶品トマトソースを保存するために、瓶の煮沸をしようと深い鍋を探して、そういえばと取り出した、ある鍋。

生活が変わり、家族の人数とコンロの大きさが変わって、しばらく使っていなかったその鍋。
パスタがバサッと縦で入るサイズのかなり深さのある鍋。

この鍋をみると、思い出す人がいる。
あの人からもらった、大切な鍋。始まりの鍋。
今日は、この鍋との旅のはなしを。

大学生の時、カンボジアのある遺跡とその近くで生きる人たちにのめりこんだ。

初めて訪れた2年の秋のあと、春休みはカンボジア、夏休みもカンボジア。
日々の日本での暮らしは、カンボジアへの資金を稼ぐのと、カンボジアにまつわること、そして好きなことを仕事にするための諸活動に充てられて、同居していた父親からは「家を充電器だと思っている」と嘆かれた。
実際、携帯とPCと自分の充電(主に寝る)の舞台。生活を回すほとんどは父がしていたと言ってもいい。大変にヒドイ娘であり、ダメ大学生である。

免許を取るお金があるなら航空券を買う。
そういって年に2回から3回、カンボジアへ。
一度の渡航は3週間。大学2年の秋からそんな暮らしがはじまった。
それまでやっていた大きいチェーン系のビデオ屋さんや銀座の有名デパートの中にあったケーキ屋さん(ここでの数々の出来事も上京して初めての鮮烈な“ザ・東京“の記憶)でも人に恵まれ楽しく働かせてもらってきたけれど、春休み・夏休み中の大学生はシフトの主力である。その時期に1ヶ月近く休みを申請するのはなかなかにハードルが高く、カンボジアから戻ってからは家の近所にあった小さくて素敵な蕎麦屋さんでお昼だけ働かせてもらっていた。

そんなある日、大学の同期でカンボジアでの活動を一緒に始めた友人と一緒に早稲田から理工学部のキャンパスへと向かう途中、初めての路地を通った。

インド大使官邸の脇にある、急な坂を登っていく小さな通り。あたりは夕方の暗さの中にあって、官邸の庭から張り出した豊かな木々の梢がさらに濃い影をつくっていた。
その影の中、坂の上に小さな明かりが見える。
蔵のような外観の建物に、小さなまるい明かりがついて、その下に同じく小さな看板。
「カフェかな?」
登りの勾配がきつい坂を登りながら、明かりの隣の窓から光が漏れてくるその場所を、通りすがりのほんの数メートルの間だけ覗いてみた。

そのとき、仄暗い周囲の風景の中から際立つように、店の中のカウンターの向こうにいる女性の姿がポーンと目に飛び込んてきた。今でもその瞬間にみた画のことを鮮明に思い出せる。

腰より少し低いカウンターに座っているお客さんの背中。
その向こうの、やわらかい間接照明の光の中に立つ女性。
茶と白が入り混じったほんのりウェーブの短い髪とシンプルな黒のエプロン。
手にした布巾でお茶碗を拭きながらお客さんの話を聞いている。
そこにたたえられた笑顔。その雰囲気、窓から見える店のシンプルだけど味わいのある年季を感じる木と白壁の内装、間接照明の明かり。その全部と融合しているようにある、その人のたたずまい。

「日本茶のカフェだって。」
「うん、あの中の人、素敵だね。いつかあんな風なおばさんになりたい」

思わず、口をついてそういっていた。
「うん、わかる。すごく素敵なひと」隣の友人も言った。
「いつか、行ってみたいね」
そのときは、こういう会話をして、登りきった坂の先を急いだ。

それから数日。どうしても、あのカフェのあの人の空気が忘れられなかった。

幸いカフェは大学と同じ高田馬場にある。いつもは時間通りに大学に行ったことなどないのに、少し早く出て、改めてあの場所を訪ねた。
蔵を改装したお店はとってもシックで落ち着いていて、逆にいうと大学生にはちょっと入りにくい。ドトールやエクセルシオールなら金額もだいたい予想がつくし、ちょっと入って、雰囲気が違ったら出たらいい。

そういう意味で、このお店はちょっと当時の私には勇気がいる場所だった。

勇気を出してえいやっとお店のドアを開けると、カランカラーンとドアについたいぶし銀なベルが鳴り、カウンターの奥の暖簾が上がって、「いらっしゃいませ」と“あの人“が顔を覗かせている。
あの時の、あの雰囲気そのままに、柔らかい空気感で「どうぞ。」と。

入ったお店は、午後のちょっとしっとりした空気の中で、私以外に窓辺に1組、カウンターの一番奥に、常連っぽいお客さんが一人(もともと、10人はいるといっぱいくらいの小さなお店)いるだけ。

せっかくだから、カウンターに座ってみよう。
ほとんど“あの人“に会いたくてきたようなものだから、目の前のほうがいい。

常連さんから1席空けた真ん中の席に座る。
重厚なカウンター
目の前でお湯を入れた茶釜からほんのり湯気が立っている
何を頼んだかはすっかり忘れてしまったが、
日本茶をオーダーするっていうのが新鮮だったこと(緑茶とは、ばあちゃんちで自動的に出てくるものだった)、壁の大きな掛け時計がボーンボーンとなっていたこと、“そのひと“の空気が、重くもなく軽くもなく、すごく親しくもなく、突き放した感じでもない、なんだか時と時の間に迷い込んだ映画かなにかのようだったことを覚えている。

「早稲田の学生さん?」
カウンターの常連さんと話す会話の合間に、ふっと声をかけられた。
その自然さに誘われるように、数日前に通りかかった時にとても素敵なお店(このときはあなたです、とは言わなかったと思う)だと思ったこと、それで今日一人で来てみたことを話した。

その後、常連さんも含めて世間話のような感じで、学校のこと、カンボジアにはまっていることなどを話した。

ー授業はたくさんあるの?
いや、まあ、あるような、ないような(ちゃんと行ってないからね)
早稲田と大久保にはよく行きますね(ほんとは所沢キャンパスだけど)
ー今、どこかでアルバイトとかしている?
家の近くの蕎麦屋さんで、少しだけ。カンボジアに行きすぎて、なかなか働かせてもらえるところがなくて。

ーもし、よかったらうちで働かない?
え?・・え、ほんとですか?働きます。ここで、働きたい、です。

ーあら、ほんと?よかった。じゃあ、来週からお願いしようかな。うちはそんなに忙しくないから、お昼の2時間だけっていうのはどうかしら。
はい、うれしいです!あ、勤務時間とか、聞いてなかったですね笑

週にどのくらい来られる?
お給料、このくらいでいい?
と、その場でトントンとんと決まって、次の水曜日から働くことになった。

ー履歴書とか、連絡先とかいらないですか?
うーん、うちの名刺を持っていって。あとは、その日に来てくれればいいわ。

その時から、大学を卒業するまでのほぼ3年間(しっかり留年したので)、私の体の約半分は、このお店のおにぎりでできていたといっても過言ではない。

そして、このひとには生きていくなかでとっても大切なことをたくさん教わった。たぶんこのひと(便宜上ママさんと呼ぶ。本当はそう呼ばれていないけど、しっくりくる言葉がない)には全く教えているつもりはなく、そのまま、その人であるだけ。私はいつもその背中を見ながら、彼女がつくる空気の中にいた。

私がいるランチの時間は、日替わりのおかずとママさんが握る大ぶりのおにぎりの定食がでる。
どういう魔法か、彼女が握るおにぎりは、ふわっとしているのに崩れず、一口食べると心がゆるんで、大きくてもぺろっと行ける。
子どもたちも両手に持ってかぶりつく。

このランチをいろんな時間帯に、いろんな人が食べに来る。
ランチの始まりはOLのお姉さん、近所の事務所の皆さん。
お昼を過ぎたころから、お子さんを連れたお母さんたち。
ランチの終わり、午後のはじめには静かなカフェタイムを求めて来るお客さん。
常連さんのなかには社長さんも、いわゆる有名人の方もいた。
でも、店に入ってくると自然とそういう日頃の看板は傘立ての横に置かれていくようだった。

カウンターで交わされるママさんとお客さんとの会話。
お客さんが話したいことをふわっと受け止める。お客さん同士が自然に話題の流れに出たり入ったりする。
静かな午後のカウンターを選んで、人に言いにくい胸に抱えたことを話す人も。
暖簾の向こうで洗い物をしながら、ママさんの相槌がところどころ聞こえる。
何かを強く促したり、前のめりになることはないママさんの懐の中で、気がつくとそれぞれの心の中にあるものが、ふわっと気泡みたいに浮き上がってくる。

この小さな路地の日本茶カフェは、この界隈で過ごす人々にとって
子どもたちのお腹いっぱい食堂であり、
お母さんたちの憩いであり、
働く大人の身体に染みる台所であり、
誰にとっても「息がながーくなる場所」のようだった。
そして、この場所の磁場をつくる核にママさんがいる。


それぞれのお客さんが帰ったあと、ママさんがちょっとだけその人について教えてくれる。
そこには噂話的な暗さや重さは微塵もなくて、その人の背景をちょっとだけお裾分けしてくれるようだった。
次にそのお客さんが来たとき、隣にいる私もちょっとだけ、そのお客さんとの距離が近づいた気持ちになる。
そして、ママさんは驚くほど自然に、私を会話に入れてくれた。
「まいちゃんはね、この間から働いてくれている学生さんなんだけど、カンボジアが大好きでね・・」
と常連さんには必ず伝えてくれて、
「私は行ったことないけれどまいちゃんが好きという国だから、きっと魅力があるのよね」と締めて、キッチンの暖簾の奥に消える。

あとから聞いたら、私がそのお店の初めてのバイトで、私が卒業しカンボジアに行ったあと、8年間バイトがいなかったらしい。

3年前にお店に行ったとき、初々しい雰囲気の女性がカウンターに立っていて、
「新しいバイトさんですか?」と聞いたら、
「そうなの、まいちゃんの次、二人目よ。」と言いながら、その初々しい女性に
「こちらまいちゃん。うちの初代のアルバイトさん」と紹介してくれ、ふふっと笑いながら、キッチンの暖簾の奥へ消える。
私とその女性は、一瞬顔を見合わせて、思わずちょっと笑った。
8年の時を超えて同じ秘密を知っている同志みたいな、あの感覚。
そのとき深い話はしなかったけれどきっと彼女も、ママさんとお店の持つ空気に惹かれたんだと思う。

ママさんは本当に、人と人の間に、自然にエネルギーを通わせる達人。

そのママさんが、カンボジアに行くときに、先の鍋をくれた。

ーまいちゃん、自炊するかしら?
うーん、お金ないですからね。たぶん、する、かな。どう、かな・・。

週に3回、3年も一緒にいたら、だいたいのことはお見通しだ。
私がそんなにまめに料理する方じゃないことも、わかっている。

(それでもママさんがお店で出していた、にんじんのマリネとポテトサラダは今も忘れていない)

それでもこの、イタリア製の底の厚いいい鍋を、餞別に。と、贈ってくれた。

その春から12年。
2年ほど使っていなかった鍋を、引っ張り出して磨いた。
とても12年の月日が経ったとは思えないほど、鍋はピカピカに光っている。

鍋を磨きながら、思い出す。ママさんの隣にいた日々のこと。

がっかりさせてしまった日のこと。
それを何も言わないけど、少し悲しそうな肩越しに、心底申し訳なさと情けなさが込み上げて、もう2度としないと強く強く思ったこと。
相手を存在全部で受け止めるそのあり方。
実はママさんがお店を開けようと思ったタイミングで大病をしたこと。
そのとき「やりたいと思ったことをやってみよう」と決めたと聞いたこと。

年に一度は、一時帰国の時に顔を出す。
毎年大きなガラスの扉を押してお店に入るとき、バイト時代にその扉を開けていた時のように、ちょっと背筋が伸びる。

このコロナな2年は、圧倒的に家での食事の時間を増やしてくれた。
友人がカンボジア国内産の安心でおいしい野菜の販売をはじめ、届いた大根を実家から送られてきた昆布を敷いてこの鍋で煮ただけで、息子は小ぶりな大根を2本分も平げた。

この鍋は私と一緒に日本から海を渡ってカンボジアの土地を踏み、そのあと今に至るまで、いくつもの町といくつもの家と、いくつもの台所を経験した。
当初の売りだった蓋についたサーモ部分は動かなくなってしまったけれど、2年のブランクも、ここまでの年月も感じさせず、今もしっかり美味しくしてくれる。

この鍋も、あのひとも、褪せない。

この鍋の黒い取っ手を持ち上げる時あの空間への通い路が開くような気がする。

これから先もまだまだ、一緒に旅をお願いします。
褪せないひとへの道の途中、時々思い出させてほしい。



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