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最後のプレゼント

昨日のout of control話の第2弾。
それは2002年。
情緒不安定が襲った出来事があったのだが、それはほんの一部で、ほとんどが父の話になる。


その年、春くらいから父の体調が何かおかしいらしいとなり、病院嫌いの父を家族で無理やりつれて色々診てもらった結果、7月になって肺がんということがわかった。
家族はみんな相当うろたえたが、私は正直最初、ガンなんてそんなに怖がらなくても治るはずだと思っていた。
しかし医者の見立てでは、余命は短く、手術とか治療とかそういったことをしても、無駄に苦しい思いをして延命することになるのであまりお薦めできないようなことまで言われた。

そう言われてもその時点では、全く現実味がなく、父は元気そうに見えたし、そんな近い未来に起こることとはどうしても想像が出来なかった。
でもとにかくそこから父のために過ごす家族の時間が始まった。
先生と話しセカンドオピニオンも受け、父と家族みんなでさんざん悩んだ結果、私たちは治療をしない緩和医療を選んだ。

実は私は、その時日本にいないはずだった。
2001年の10月から夫の海外研修に伴って2002年末までドイツにいる予定だった。でも9.11で1年先延ばしになっていたのだ。

母は言う。私がこういう大事な時に傍にいられたのは父がそういう生き方をしてきたからだと。
自分のここぞという時に助けが得られるのは、それだけのものを他人に与えてきた人なんだと。

10月に夫はドイツに発ったが、私は日本に残ることにし、実家で父、母、姉と過ごした。父は入退院を繰り返しながらも、できるだけ自宅で過ごすことを希望し、入院も家族だけの空間になれる個室にしてもらい、みんなで交代で泊まった。

夫がドイツに発つ少し前に自分達の家を引き払い、実家に戻った。
その時父は入院中で、最後に病院で父と夫が挨拶し握手をした時は私は涙を隠せず病室を出ない訳にいかなかった。

それは夫と結婚してちょうど5年たった頃だった。離れて暮らすことになったが、それほど大したことではないと思っていた。
ドイツに一緒に行きたいのはもちろんあったが、それよりも大事な仕事が日本にある。大切な時間になるはずだ。

なのに、夫が発つ前日だったか当日になって、私の様子は急に変になった。
自分でもびっくりした。なになに??
不安??なんだかわからないけど、とっても不安定になって涙が出そうになる。家族もいるし、そこで泣きだしたらなんか変だし、必死にこらえる。
夫がドイツに旅立つことがそんなに寂しいの??

不安定な状態のまま、母もちょっと心配気に私を見ていたが、あえて何も言わず見守られ、私と夫は空港へ行った。
空港へ行ってからは私は泣いていた。
その時の真っ赤な目をしている写真が今もどこかにある。
別にずっと会えないわけじゃないし、何も心配することはないのに。
「私は日本で父との時間をしっかり過ごすね。元気でね。」
ただそれだけだったが、5年間ずーっと一緒に暮らしてきた人と離れることがこんなに不安定な自分になることを驚いた。
それから恐らく1週間くらいその不安定な状態は続き、その後次第に戻っていったと思う。

父は11月22日、68歳の誕生日を迎えた。
それまで自宅で過ごせていたのだが、その日の朝に様態が優れず、救急車で病院に運ばれた。幸い回復し、その日の夜、病室でみんなで父の好きな八海山で乾杯した。
そしてその数日後父は他界した。

びっくりするくらいあっという間だった。
最初先生に年を越せるかわからないようなことを言われた時に、どうしてもそれが理解できなかった。
こんなに元気なのにどうして??
それにどうして家に階段があるかと聞くのか、色んな事がわからなかった。
先生は「例えば人がこれから20年かけて年老いていくのが1年で起こるというように思ってください」そんな風に説明した。
本当にそうだった。

でも父は最後の最後まで元気な姿を見せてくれた。
夏にはみんなで草津に行って1週間くらいゆっくり過ごしたり、秋に紅葉を見に行ったり、家族の楽しい時間をいっぱい過ごした。
下の世話を他人にされるなんて絶対に嫌だ!と元気な頃に言っていた通り、前日まで自分でトイレにも行ったし、毎日髭をそり、ベッドもきちんと綺麗な状態に整え、会話も普通にしていた。
人としての尊厳というか自分の誇りを守り最後まで生を全うしている父の最後の姿は、とてもカッコよかった。
父はもともと几帳面で繊細な人で、人にも自分にも丁寧に生きてきた人だったと思う。
人は最後にその人の人生というものを見せてくれるものなんだということを思い知った。父が最後にくれた最大のプレゼントだ。

「最悪な中の最善を尽くした」これが見送った私たち家族が言い合った言葉だった。
この家族を誇りに思っている。

それから葬儀やらなにやらと忙しかったが、ひと段落したところで母、姉、私の3人で北海道に旅行に行ったりして、その後も家族団らんを過ごした。

そういえば父は生前晴れ男を自称していたのだが、他界したその夜も綺麗な星空だったのをよく覚えている。
そしてその後もどこかへ旅行などに出かけるたびに晴れに恵まれると父が傍にいると感じる。
実際今、私たち夫婦は晴れ夫婦を自称しているのだが、それは父のお陰だと思っている。

2002年はそうして終え、年明けた1月末に私は夫がいるドイツへ旅立った。


最初、夫がドイツに旅立った時の私の不安定状態を書くつもりだった。
それには父のことがもちろん入ってくることはわかっていたけれど。

昨夜、夢に久しぶりに父が出てきた。
出てくる時はいつも普通に生きていたころのままで、夢の中で父がいることはなんの不思議もない状態だ。
今回もそうだった。
起きてから、そういえば父が出てきたなぁと頭巡らし、今日書くことはやっぱり父のことにしようと思ったのだった。

何度でも頭巡ったり、家族で思い出話に花を咲かせたりしていることだが、こうして書いてみたのは始めてだ。

そうだ、お墓参りに全然行かれてない。
父に会いに行こう。

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