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普通になれなかった私

小さな頃から、「普通」というものが何なのか、ずっとずっとわからなかった。

普通、こうでしょ
普通、わかるでしょ
普通、こっちでしょ
普通に考えて、これが正しいでしょ
普通、こうあるべきでしょ

こういう類のことが一切わからなくて、
だけどまぁ、怒られるのは面倒だから、
提示される普通に乗っかって生きている子どもだった。

(普通に育って普通に大学出て普通に就職するのが親孝行だとも思ってたし)

 

そうこうして普通に就活して普通に受かって、
普通に社会人になったとき、この「普通」に何度もやられた。

何度も何度も叱られて、
だけど何で怒られてるのか、どうしてそんなことで怒るのか、なぜそんなに短絡的に怒るのか、
何も、わからなかったんだ。たぶん一度も。

 

普通になれない私がおかしいんだと思って周りの声を採用し続けて、ついに、鬱になった。

のをきっかけに、私は普通を捨てた。

捨ててもいいんだ、別に採用しなくてもいいんだ、そういう選択肢があるんだと、そこでやっと気がついたのだ。

それで、コツコツ、ひとつずつ、捨てた。

 

捨てて捨てて捨てて、その度にすごく幸せになれた。
何度も諦めたけど、やっぱり私の考えを大事にしてよかったんだと、ひとつひとつ、私を拾い直す作業だった。

いつしか私は、今のオリジナルな私の生き方がとても好きになっていた。とても誇れるようになった。
そして何より、とてもとても幸せ。

 

なんだけど、

 

 

今度、新社会人の子に対して講義をするんだけど、
今日打合せしていたら、
普通になれない私なんかが、これから新しくキラキラ出ていくあの子たちに、何か伝える資格なんてあるんだろうか? 
ってボロボロ泣いてる私がいた。

あぁ、そんなに「普通」に憧れていたんだと、
少し前の私を迎えにいった気持ちだった。

 

「普通」は少しずつ崩れてる。
だから「普通」のことを今さら何か言おうとは思わない。

その代わり小さな私に、

ほんとによくがんばったね

と伝えたいと思う。

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