見出し画像

【覚醒=自分を知り受け入れると言うこと】1000%の自己開示をしてみる(中半)

長編の大作になっちゃったので分割!!
妊娠出産編は出産レポみたいになっちゃったから苦手な人は飛ばしてね。だけど私にとっては忘れられない大事な経験なので全部書いておく。

恋愛編

✔︎恋は盲目
✔︎どれだけわがままを聞いてくれるかで愛をはかる
✔︎人よりも肩書きを見てる
(当時はそんなつもりない)
✔︎好きになる基準が母親のウケがいいか

高校卒業が決まってから中学の時の友達と付き合うことになる。初めてまともに付き合った彼氏。高卒で実家の家業を手伝いながらバイトしている自由な感じに惹かれた。初めてのエッチもその彼氏。深夜のバイト終わりの公園でしてしまった笑
色んなところでスリルあるのを求めちゃうのはこの彼氏との経験から来てるのかな。

大学に入ってみると頭のいい人が周りに多くなって、彼氏に対して学がないとか将来何も考えてないとか心の中でマウントを取り出す。次第に彼からの束縛がものすごく激しくなってきてお別れ。

大学1年目の夏休みの学科合宿で学科一の秀才に目をつける。頑張って同じベッドに潜り込む。←なにやっているんだか。

その後秀才くんと付き合う。サークルも彼についていって全く興味がないサークルに。ただ飲んで楽しみ、彼氏の家に入り浸り、課題やノートは彼氏のをうつさせてもらう毎日。

私は彼氏にべっとりで、片時も離れたくないし、アルバムとか作っちゃうし、わがまま放題でどこまで応えてくれるかで愛を試す日々。1年付き合った頃に別れを切り出されるが泣いて拒む。

結局別れることになったのだけど、別れた後の彼との関係は最悪に。まずサークルの合宿代とかを借りてたのを請求される。デートで割り勘だと思っていたご飯代を請求される。でもお金ないから無視してたら学科で授業前に金返せって言われる。どうしていいか分からず悲劇のヒロインぶってやり通す。(払わない)

成人式では久々に地元の友達に会って数人と経験を持つ。「彼氏以外と関係持つなんて」という考えだったけど、その1ヶ月だけは私的にはなかなかな人数と経験する。(多分経験値が高い人からしたら、少なって言われそうだけど…)いけてる女子はそういうのをたくさん経験して遊びまくっているという謎の法則が頭の中にあったんだと思う。意味不明。若いって怖い。

2年生の終わり頃にサークルのOBの二次会に招かれる。現役生がほぼいなくてアウェーだし、二次会も初めてで勝手も分からず、あまり絡んだことはないけど面識のある3個上の先輩に小判鮫のようについて回る。大人だし会社員だし3次会のお金払ってくれたしと目が♡になる。

三次会では28歳くらいのお姉様たちに邪険に扱われしゅんとなる。(心の中ではこの可愛くもないおばさんめって闘志メラメラ)今考えると婚活適齢期の戦場の場に当時19歳の未成年が割と優良株の横に小判鮫のようにはりついていてイラついたんだろう。「ビール持ってきて」「ジョッキ片付けて」とバイトのように扱われてたけど、それを助けてくれるイケメン先輩。さらに好きになる。

後日連絡先をゲットしデートにこぎつけ、猛アタック。1ヶ月で10回以上会っても告白してもらえず、「だめなら時間の無駄で次行きたいんではっきりしてくれ」と迫り交際することに。

お付き合いを始めてからサークルの飲み会に参加した時に元彼の秀才くんが酔って私に暴力を振るった(髪の毛引っ張られて引き摺られた笑)。それを見ていた彼氏が止めに入り「お前冷静になれよ」と一言。その瞬間脳内では「漫画みたいな展開!やば〜!!!!」となりヒロインばりに「私のためにいいよ」って彼氏を止めに入ってみる。笑えるけど幸せな瞬間だった笑

母親が23歳で結婚、25歳で私を産んでいたので、自分もそうしなきゃと謎の焦燥感に駆られ、1年記念日の大学四年生でプロポーズをしてもらう。付き合った時同様に「23歳で結婚したいの!結婚する気ないならはっきり言って!」と迫って追い込んだ。若さって素晴らしい。頭の中は学業よりも結婚式のことでいっぱいに。

結婚・妊娠・出産編

✔︎全てが母親の価値観
✔︎実家からの自立ができない
✔︎マウント取りまくり
✔︎自分の求めた形以外の愛が受け取れない
✔︎夫婦の形が築けない
✔︎旦那さんは本当にいい人だった

今考えると恋愛体質の女子が結婚に恋をして決めた結婚だったと思う。

彼氏と付き合った時も、次付き合う人と結婚したい!この人なら母親が合格出してくれるかな?大学は私と一緒だし、仕事は誰もが知ってる大手、優しくて…的な条件に惹かれた気はする。でも当時は大好きでしょうがなかったし、いい人だったのは間違いない。母親にデートのたびに報告しては「本当に大好きなのね」って言われるくらい常に顔はにやけていたはず。

結婚というのが現実味を帯びてくると彼の実家との価値観の違いに違和感を感じ出すように。兄弟の学歴や親の収入、発言などなど。結婚式のお金に対して「そんなにかかるの?」って言われて「お金も出さないくせに」とか思ってた。まあ見下してたよね。

お義父さんのウケ狙い目的の人を小馬鹿にしたような発言に吐き気してすごい心の中で罵倒してた。お義姉さんに対する「おっぱい大きくてスタイル良くていいよね」とかの言葉も本当に気持ち悪いって思ってた。

結果義実家には年に2回程度帰るだけ、うちの実家とは物理的にも精神的にも近い距離で生活することに。振り返ってみると母親からの自立が出来ていなかったと思う。旦那と二人で夫婦ではなく、うちの家族にお兄ちゃんとして旦那が仲間入りしたイメージ。家を決めるのも何するのも最後は母親に確認。土日も父親からご飯どうするの?って連絡が来て二人で実家に泊まる日々。

旦那さんが本当に優しくて私の好きにしていいよと全て受け入れて順応してくれた分、私は自立するタイミングを失ったんだと思う。社会人になる前に結婚を決めたし入社後は働き方が忙しすぎて、家の家事は旦那が、実家に行けば親が私の面倒を見てくれて、旦那と二人でいる時は母親が旦那にすり替わっただけな感じだった。

結婚式も終えて仕事がきついしそろそろ子供を作って産育休と思ったけど中々できなくて不妊治療の開始。

若ければできやすいと言うけれど、多嚢胞生卵巣嚢腫だった私は若さは関係なく出来ず。まずはタイミング法から始めることに。ここで問題が…
彼は性欲よりも睡眠欲が勝るタイプ。タイミング法って結局排卵しそうなタイミングを逃したら意味がない。1年半くらいだらだらと続けたけど、タイミングを逃すたびに「なんで寝ちゃうの?」とイラつき彼に当たり、結局そんな雰囲気じゃコトにはおよべず、毎回私何してるんだろう…と落ち込む日々。

そんなタイミングで仕事も徐々に楽しくなってきて一度不妊治療はやめて自然に任せるように。

1年くらいお休みしていたけど結局妊娠せずに再び不妊治療を開始。今度は専門病院を調べて再チャレンジ。そしたら初回のタイミングでまさかの妊娠!

そこからは幸せだったな〜。同時期に不妊治療していた先輩と情報交換しながらマタニティライフを楽しんだ。妊娠当時は25歳。若いから楽だし大丈夫よー。って色んな人に言われ、設備とかも考えずに近所の通いやすい産科に通い出した。

胎動を感じ始めてちょっとたった妊娠23w。土曜日に数分おきにお腹がいたいということに気付き出血もあったので急いで旦那と病院へ。今までのお腹が張る感覚とは桁違いの痛さ。診察してもらうともう足が出ているとのこと。逆子になってしまっていた。

救急搬送されるのが決まったものの、23wという週数から受け入れられる病院が県内に3箇所しかない。おじいちゃん先生が色んなところに電話かけてくれて、恐らく患者の情報聞かれたんだと思うんだけど、真顔で「日本人?何人?」って聞かれて場の空気が少し和んだ笑

なんとか受け入れ先が決まり救急車の中で生まれることも想定されて、受け入れ先とは別の病院からドクターカーも駆けつけてくれた。

救急車がつくまでの間、陣痛がきて痛いけど、絶対に力んじゃダメって言われてた。赤ちゃんが小さすぎて力んだら出てきちゃう。ここで出たら絶対に生きられないと言われた。泣きたいけど、泣いたらお腹に力が入っちゃうって必死に堪えた。

病院に着いたらとっても笑顔の可愛い美人な先生が担当ですごい安心したのを覚えてる。赤ちゃんはなんと搬送中に足を引っ込めて頭を下に直してくれていた。みんなに賢い子だねーって褒められた。子宮口は7cm開いてて、赤ちゃんも一番太いところが同じくらいの大きさとのこと。普通分娩でいけるかもという話だったけど結局臍の緒に絡まってしまい緊急オペに変更。

本当は不安でいっぱい。旦那には手を繋いで頭を撫でて涙を拭いて励まして欲しかった。でも旦那は緊急オペになった私と息子のなんかの紙にたくさんのサインを書いてて、そんなことしてくれなかった。旦那もいっぱいいっぱいだったはずだけど本当に怖くて心細かったよー。。

手術室に運ばれるときに滑り込みで母親と妹が到着。結局母親が慰めてくれて励ましてくれて、あーやっぱり母親ってすごいなって思った。

手術は麻酔が完全に効く前に始まって激痛だったよ。帝王切開は痛くないなんて嘘!!笑
麻酔が効かなきゃ痛いんだよ笑
でも赤ちゃんがお腹から出てくるのを見届けなきゃと必死に意識を保っていたけど、出てきた瞬間意識を失いそうになって麻酔が追加されて意識がボーッとした。

もちろん産声なんてあげないし、たくさんの人に囲まれてちゃんとは見れなかったけど、先生たちの様子から生きてはいそうだということはわかった。コウノドリを見てたのがここで役立つとは。

そのあと部屋に運ばれて夜中に目が覚めてオムツを変えてもらう。20時半に産んだんだけど、夜中のオムツ替えは自力でベッドの柵を引っ張って体勢を変えられた。看護師さんにはこんな人は初めて。回復力が信じられないとびっくりされた。ここで初めて若くてよかったって思った笑
多分麻酔が少なかったからかな笑

翌日初めてNICUにいって赤ちゃんと対面。見えないほどの細さのたくさんの管に繋がれて、目はまだ出来てなくて、線もなくて、皮膚もできてないからワセリンでベタベタにされていて、とても人間には思えなかった。ごめんねという気持ちしか出てこなくて涙が出てきた。そのあと旦那の面会時間を待って今の状況の説明を受けたりして、大変なことになってしまったと思った。

赤ちゃんはまだおっぱいが飲めないけど飲む期間も他の赤ちゃんより長いしおっぱいを枯らさないためにも搾乳がマストになってくる。普通の赤ちゃん同様に3時間おきに搾乳するんだけど、そのタイミングでよその赤ちゃんがお腹を空かせて泣いているのを聞くのが辛かった。搾乳機をしながら虚しくて悲しくて…

赤ちゃんと直に触れあえなくても赤ちゃんを見て母性を芽生えさせたほうがいいと聞いていたから、泣き声から逃げるようにNICUの保育器の前に籠る日々が始まった。明け方3時間以外はずーっと保育器の前にいて、寝て、搾乳機を使う日々。そんな私を見て先生が通常よりも2日間入院期間を延ばしてくれた。

そのあとはあんまり記憶がないなー。毎日が繰り返し。病院まで片道40分だったんだけど、最初の1ヶ月は母が送り迎えしてくれて、その後は自分で運転して通った。ペーパードライバーだったけど運転技術が上がったよ。

毎日検査結果を聞いて、ときに緊急手術と言われ、全然良くならなくてお尻からミルク入れてみたり、エゴマ油飲ませてみたり、人工肛門作ったり…パウチの貼り方もその辺の看護師より上手くなった。本当に一生懸命過ごしてた時期だった。

息子がこんなに頑張ってるのに目の前で泣いたら「僕のせいでママを悲しませてる。僕はいてはいけないんだ。」って思わせて死んでしまうかなと思って、絶対に息子の前では泣かないって決めていた。(数回は泣いちゃったけどね)

旦那は毎日欠かさず面会時間終了5分前に滑り込んでくれる本当にいいパパだった。滑り込んできて保育器の前でパウチに入れる綿くるんだり雑務を率先してやってくれる。本当にいいパパ。

だけどこの頃から夫婦の距離感はちょっとよくわからなくなっていたのかな…。元々話し合いとかがうまく出来ないのが悩みだった。旦那が黙り込んじゃうタイプ。会話が続くなくて、いつも無言を居心地悪く感じてた。そこに今まで見たことのないほどに大きな乗り越えなくてはならないものが出てきた。

息子は全部で7回の手術をしたけど最後は肝臓が機能しなくて黄疸とむくみがどんどんひどくなっていった。体重は3kg弱まで増えたけど恐らく実際は1800gとかなはず。自分の体重が大半浮腫ってどんな感覚なのかな。

最後もう限界かもとなったのは面会中だった。NICUの面会は両家の親までって決まってたけど、半年間本当に頑張った息子に家族を会わせてあげたくて先生に頼んだらみんな呼べるなら呼んでいいよって言ってくれておばあちゃんや従姉妹まで駆けつけてくれた。本当に愛されてた息子だった。

私に抱っこされながらみんなが到着するまでお薬で延命して、みんなが揃った時に、先生から延命も限界だし苦しいと思うと言われて、「もう大丈夫です。ありがとうございました。」と息子の命を終わらせた。

こんな風に終わりを迎えることになるなら、何度も手術を頑張らせずに早く楽にさせてあげればよかったのかなって考えがなくならなかった。でもどうしても生きてくれるかもという希望を拭えなかった。何が正解だったのかな。

息子の入院中、私は言霊が怖くて口に出すと本当になっちゃうんじゃないかって思って、常につきまとう「死んじゃうかも」っていう気持ちを旦那に一度も言えなかったんだよね。恐らく旦那も同じだったんじゃないかな。今考えると変だけど二人でいるときに息子のことを話したことがなかった。私の生活は息子のことしかなくて、息子のことを話さないってことは会話がないんだよね。全然険悪なムードじゃなかったけど、壁がある感じ。

結局息子は半年で亡くなっちゃったんだけど、旦那には一度も息子のことで心を曝け出すことができなかったな…私が旦那を信じられていなかった。

またまた長くなったので次へ続く。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?