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妊娠 No.2

堕胎用の紹介状を持って実家に帰り、だらだらと過ごしていた。

なかなか親にも言えず、病院に行く勇気もなく、漫画ばかり読んでいた気がする。

堕胎できるギリギリの週数で、やっと母親に言った。

「えー!おめでとう!産みなさいよ。私本当は4人目欲しかったからもう一人増えたみたいで嬉しいな〜。」

泣きながら言ってくれて救われた。その後、母から聞いた父も喜んでくれた。

誰との子なのかとか、これからどうするんだとか、現実的な事は一切聞かれず、私を選んできてくれた命に感謝しなさい、大切に育てなさいとだけ言った。

大学を勝手に辞めて、歌手になって、何年も音沙汰のなかった娘がふらっと帰って来たら無職の未婚の母だもの。相当悩ましい出来事だったと思う。そんな中、全てを受容して、ただ生まれてくる命に感謝できるって、本当にすごい二人。

その二人の後押しを受け、病院では無事お腹の子の生存も確認でき、やっと未婚の母としての自覚が芽生えたのである。

産むと決めてから、毎日同じ夢をみていた。光に包まれたマリア様が「人の役に立つことをしなさい。」とただ語りかけてくる夢。どういう意味だろうとずっと考えていた中、「助産師」と閃いてから、その夢は見なくなった。

そこから助産師って何、どうやったらなれるのかを調べ、最短で最安な方法を選んだ。看護学校から専門学校に行くのが一番近道だと知り、地元の一番安い看護学校を受験することにした。だから、最初は助産師に対する熱い想いはなかったのが本当のところ。必要に駆られて、あとは何かに導かれてといった感じ。妊娠・出産・子育てをしながらの勉強は大変だったでしょうとよく言われるが、東京の国立大学受験のために頑張ってきた分、実はそんなに勉強に苦労しなかった。教育は身を助ける、というのはこういうこと。人生をいつでもどんな方向にでも軌道修正できるチャンスを得るために勉強するのだとこの時しみじみ感じた。

親の暖かい愛があったとは言え、毎日不安と悔しさで泣いて暮らしながら臨月を迎え、生まれる気配が全くないまま時間は過ぎ、誘発分娩を3日間頑張った後、経膣分娩できず緊急帝王切開で無事出産できた。もっと感動するものかと思っていたけれど、医師の「うわ、ちっちぇー」という第一声にすごく落ち込み、こんなにちっちゃいまま産んでしまってごめんなさい、こんなお母さんでごめんなさいという気持ちしかなかった。

入院中、全く泣き止まない赤ちゃんを抱き、廊下を散歩していたらベテラン助産師に「他の人に迷惑だから廊下に出るな」と言われ、どうしても泣き止まなくて辛いと助けを求めたのに「これから一人で育てるんだから、それくらい自分でなんとかしなさい」という追い討ちをかける言葉。おっぱいは一度も見てくれず、やっときてくれたと思ったら「何これ、牛みたい!」と言ってパンパンに張って真っ赤なおっぱいを前に授乳の仕方は教えてくれなかった。私はこの時、子育てで他人には絶対に相談しない、頼らないと決めた。こんな助産師にはならない、私は孤独な気持ちになっている女性の助けになる助産師になろうと強く思った。

今思えばこの頑なな態度こそが、育児を大変にしていたのだと思う。



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