代官山蔦屋

いくら蔦屋に行ったって新しい生活は始まらない

代官山蔦屋のそばに引っ越して二年半くらい経って。いろいろないいことが自分にはもたらされたと思ってます。

・ちょっと気になったことがあったときに「調べる」という初速が上がった
・何もすることがないときに、「何かをする」強力な選択肢を得た
・深夜作業、平日作業に最適な場を得た
・映画をよりよく見るようになった。
・雑誌を読む比率が上がった。「世の中」がよく見えるようになった。

生活の文化度はなかなか上がったなという実感はあります。さすが、ライフスタイルの提案の場。「ほしいものが、ほしいわ」という至極のコピーを書いた糸井重里さんを見かけたこともありますが、まさに「やりたいことがほしい」ときに行くには最適。ただ、最近感じる、なんともいえないむなしさがあって。それは、まあ、当たり前のことなんだけど、

『いくら代官山蔦屋に行ったって、新しい生活はそれだけじゃ始まらない』

ということで。あそこに行ってみたい、こんな趣味をはじめてみたい、あの本も読まなきゃ、あの映画もいいな… 結局は、その着想を行動に移すかであって、それは外の世界との関わり方の問題で。気を付けないと、世界を見知った気にだけなって、でもどこか自分の行動力のなさに気づいていて、自己嫌悪が増すなと。リア充空間はこれだから、根が非リアな人間には怖いのである。

便利なもの、居心地のいいものは、竜宮城のような空恐ろしさを何事もはらんでいるとかねてより思っていましたが、これだなと。適度な距離は保っていきたいと思うわけでした。

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