モノはいつもココロをためしてくる
ほぼ日「生活のたのしみ展」に時間が少しできたのでふらりと寄ってみた。ほぼ日がこれまでセレクトして売ってきたモノがぎっしりと出展していた、なんともほっこりする、本当に上質な市のような、歩いているだけでハッピーな空気を味わえる空間でした。
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まあでも、なんにも買わなかったんだけどね。今回に限らず、とってもいいものに触れると逆に買えなくなってしまう自分がいる。いいモノの定義にもよるけど、本当に上質なものを手に入れても、それで自分自身の生活がほんとうに上質になるかどうかは、結局は受け止めるココロ次第だと思うし、本当に「上質なモノ」ほど、その人本体のココロを試してくるように思うわけです。ああ、たぶんとってもここのモノはいいものなんだろうけど、これを買っても家で埃かぶらせちゃいそうだなあとか、上手に使えなさそうだなあとか。おそらく上質かつ、「なくても生活は回っていくけど、あったら生活がとっても豊かになる」という、”幸せな余計”だと思うので、なおのことその余計を使いこなせるか、試されるなあという気分になったのです。
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でも考えてみると、それは本来あるべき「ココロとモノの関係性」なんじゃないかなと。便利の果てに誰でも何も考えなくても、工夫を自分なりに張り巡らさなくても使えるものばかりになってきて、そこに「愛着」という概念が薄れてしまったように思います。愛着って、自分のココロとモノがつながった時に芽生えるもので、誰でもおんなじように工夫なく使えるものには芽生えにくいもの。生活のたのしみ展にあったモノたちは、愛着の伸びしろがとっても高いものだったってことだろうな。それを受け入れられなかったコンディションの自分のココロを見直すいい機会になったと思います。そういう意味では単に「モノが売っていた場所」以上の価値があった、「何も買わなかったのにとても得るものが多かった」場所ってことか。すごいなやっぱりほぼ日。
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