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消費の趣味と、生産の趣味と。

最近、全然ピアノを弾かなくなってしまって、悲しくなってしまうわけだけど、よくよく考えてみると時間がまったくないわけではないよね、っていうことに気づく。サークル時代の先輩で、しばらくのブランクを経てベースを復興した先輩と飲んだ時も、ほんと、「今この1時間で基礎練、何往復できるか」とか、単位がベースになるほど今楽しい、ということを聞いて、これは何が違うのだろうと思うわけです。

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自分の持論として、趣味というか余暇の過ごし方を大きく「インプットの余暇」と「アウトプットの余暇」という風に分けていて、前者は例えば映画鑑賞とか読書鑑賞とかそういうたぐいの趣味で、『習熟が特にいらない』『受け身でもある程度流れていく』っていうところがポイントかなあ。自分の場合は、映画と漫画とサウナはこっち側。対して「アウトプットの余暇」は、ものづくりしたり、ピアノ弾いたり、キャンプとか料理もそうかな。何かを生み出す余暇で『習熟が必要』『受け身だと始まらない』『まあまあ手間』っていうものだと思う。だからこそ、やりがいもあるし、自分のアイデンティティに結び付く感覚が強いと思うんです。ってことを思っていたら、タイトルの表現をほかの人がもたらしてくれて、消費と生産だなって思って、最近はそういう呼び方にしています。

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なんでピアノから遠ざかっているのか考えると、「生産の余力が、趣味の時間に残っていない」っていうことに尽きると思ったんです。仕事で”生産”をして残りのMPがない状態で、余暇で生産を行おうとしても「MPが足りない!」になっているようなそんな感覚。何も考えずに、リーンバックして、面白みを享受したい、そんな心持になってしまうのです。よくないことだとは思うのだけど。もうちょっと「生産体力」がほしいなあと思うけど、今はしょうがないかなとは思う。ただ自分の場合、かすかな救いは「モノを書く」という生産は割とMPを使わずにできるということと、そのモノを書くという行為は、消費の趣味にくっつけることで、その趣味を疑似的に「生産」に切り替えられるということだと思って自己肯定してます。映画鑑賞だけだと消費だけど、「映画のレビューを書く」は多少生産になっているのかなあと。できるだけ、消費と生産をバランスさせていけたらなあと思う今日この頃。

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