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信じてくれていると信じるのが一番難しい。

とあるロングセラー商品が近年の売上低迷を受けて終売になることに、長年のファンたちが事前通告もなく当日にその知らせがリリースされたことに嘆きの声をあげて、それにまた担当者が驚いているというニュースを見た。そんなに愛されているならもっといい終わり方があったんじゃないかという思いと、そんなこと今更いうんだったらもっと買ってくれよっていう思いと、両方あるんだろうけど、いずれにしても「愛されているという事実を信じるにも勇気がいる」っていうことはあるよなとつくづく思う。

中学に入ってすぐに引っ越しをして、私立に入って交友関係もガラッと変わってドタバタしていたある夜中に、母親に起こされて一本の電話に出たら小学校時代の一番の親友からの電話だった。どうしてなんにも言わずに引っ越しちゃったのさっていう趣旨の話だったのだけど、起こされて出たこともありぼんやりしていて「ああはいはいまたいつでも会えるからさ」といってそそくさと電話を終えてしまった自分。結局、それが最後のやりとりになってしまったまま今に至っていて。今思えば自分は、彼の自分に対しての好意や大事に思う気持ちを信じられてなかったんだなと思う。軽んじてたわけではなくて、よくない謙遜というか、そんな大袈裟な、的なすかしというか。いまだに心に刺さったままの棘の話。

人を信じるというのは、「その人のことを単体としてまともな人だと思う」ことのレベルであれば、訓練したり、メンタルモデルを組み替えられさえすればできることな気がするけど、1番勇気がいるのは、「人が自分のことを信じてくれていると、信じる」ことで。もしすれ違ってたらどうしようとか、無視されたらどうしようとか、こっちが見積もったほどでもなくて気まずい空気になったらどうしようとか、そういう気持ちを乗り越えるのって幾つになっても上手くならない。ただ、傷つくことや恥ずかしい思いをすることを回避せんがためにそこをスカシに行くのが一番実はガキっぽいぞっていう真理に、ここ1年コーチングを受けたり子育てしたり、自分を無償に引き受けてくれる存在と向き合うことで気づけたのは大きかったように思います。

そんな37歳バースデー。ちゃんとカッコ悪いことができる人になりたいなあ。

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