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経験が当事者性をうみ、解像度をあげ理解を生むんだぜ(そこで初めて遠さに気づく)。

1歳と2歳の違いなんて、子供を育てたり、ある一時期身近にしたりしないと、混濁してわからないと思う。自分はかつてそうだったので。こんなにちがって、こんなにできることも増えているのに、わからないものなんだなと。

物事に対する解像度っていうのはこんな感じで、その物事に当事者として関わったことがあるかという経験の有無で決まるんだなと改めて思います。1歳と2歳の違いが「どうでもいいこと」であるうちは、解像度なんて上がるわけがなくて。こうして自分は自分以外の存在によって、その物事の当事者にさせてもらっているんだなあと、子供を育ててなお思います。街で息子に対して「何歳ですか〜?」と声をかけてくれる人よりも、「1歳半くらいですか?」と声をかけてくれる人の方が、なんとなく当事者意識を共有できる気がしたり、その人としても具体的な年齢を口に出すことによって私はあなたの気持ちを多少とも当事者としてわかりますよというシグナルを出そうとしてくれているんだろうという気がしたり。

一方で、当事者になればなるほど、人は人それぞれ千差万別で、完全に自分以外の当事者になることなど不可能なのだなということにも気づく。近づけば近づくほど、違いに気づくというか。1歳半というのは大体こんな感じというのがわかると、その先に「大体こんな感じ」の半径がいかに広く、いかにその中にいろんな場合があるのか見えてくるような。

同じだと思えると違いに目がいくようになり、
違いに気づくと、それでもなお同じものとして分かりあう方法が見えてくる。

わかったふりをしないことと、それでもなおわかりたいと思うことと。本当の理解って、「本当の理解なんて永遠にありえない」ということを理解してそれでもその上で、理解したいという姿勢で向き合うっていうことなんでしょうね。


初めて海に足を突っ込んだ彼の困ったような、それでいてすぐには逃げずにちょっとその状況に浸っている様子は、ああわかるよっていう気持ちと、何を考えてるんだろうなあっていう気持ちの、両方で受け止めたなあという春。可愛いので無限に面倒を見ていたい気持ちと、たまに一人の時間が手に入って19時に渋谷に髪を切りに行った時の雨の都会のあの感じが久々すぎてハイエイタス・カイヨーテなんか聞いて歩きたくなる気持ちも、また両方大事です。

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