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文章を書くことは、自分を知る訓練です。

最近割と、僕が暇そうにnoteをせっせと書いている件についてリアルライフで突っ込まれることが増えてきていて笑 「どこ目指してんすか」とか、「どーいう心境で書いているんですか」とか、なんか結構、どうやら不思議な行為らしい笑

なんで書いているかと言われるといくつか理由はあって、振り返ればブログ黎明期からいろいろお引越しを繰り返したり休眠期間もあったりしながらもう12年くらい、ネットに何かしら文章を公表しているなあと思うし、さらにさかのぼれば中2の時にエッセイを初めて書いて校内で賞とっていい気になったところまでさかのぼるのだけど、「文章を書く」というのはほんとに筋トレのようなもので続けないと、ほんとに錆びるんだよね。特に、ほんとに自分の思っていることを伝えられるには「自分の言葉」を獲得しないといけなくて、それには、何度も何度も言葉っていう道具を「こうかな」「こっちかな」とか、使って使って使い倒さないと、急にうまいコト言えたりしないんだなと思って、そんな反復練習としての側面がひとつ。

でそれ以上に、「自分を表現する訓練」を自分に課しているんだと思う。僕だけじゃなくて、人は結構、自分が思っていることを思っているままに人に表現できない毎日を生きていると思うんです。恥ずかしさとか、ここでこんなこと言ったら変な奴って思われるんじゃないかとか、いらないことがたくさんよぎってよぎって、大事な時にホントに自分が思っていることを発露できないで過ぎていってしまったり。自分も超人見知りな子供だったので、ほんとに苦手だった。未だに苦手だけど、文章でなら割と恥ずかしいこと書けるかもしれない!と中2のエッセイが原体験として気づけたときがあって、それからずっと、少しずつ訓練を続けているんだなと思います。

映画のレビューとかもずっと書いているけど、5年前のレビューとかまだまだ、やれ主役の演技がどーとか、こういうパターンの映画だとか、引きで評論しちゃってるなあと今読むと思う。そういうことじゃなくて、自分の感情がどう感じたのかを素直に書けるようにならないとと思って、まずそこから書くように1年前くらいから変えてきて。やっぱり最初はしんどいんですよ。コンテンツをどう感じたかって、自分の価値観の写し鏡だったりするし、ましてや映画なんて、うるさい人たくさんいるじゃないですかw だから、そういう題材であえてさらけ出す訓練をするのは、自分にとってはいいんだと思って、だから物を書いている。そういう経験が、結局、本来自分自身があまり問われないような題材として書いたこの本とかでも、ちゃんと自分がそこに乗せて書くということが多少できたのかなと思ってます。

自分を表現するには訓練がいるんだよ。だから人に対しても「いいから自分の思ったこと言いなよ」とかいきなりいうのも、暴力だったりするのは自分も忘れないように気を付けようと思う一方で、訓練はしていこうぜって感じます。

ってなわけで意外な人が実は読んでくれているんだなと、ここの場のことは思いつつも、「なんだよ!読んでるならいいねくらいたまにしてよー」と大学生の読者に言ったところ、『なんか読んでるって言いにくいんですよ!』と言われたので、それは、それだけ赤裸々にさらけ出せているという、よい兆候だとして受け取っておきます。続けて『読んでるっていうことを伝えて、文体とか芸風とかが変わったらいやだなと思って!』という、まるで保護区のパンダを見守るような眼で読んでくれているということも判明したのでw、これからも読者のリアクションを気にせず自分を表現する訓練を続けていきたいと思います。パンダのように、マイペースに。

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