見出し画像

コロナを乗り越えたら、欲しいものがなくなってしまった秋。

ステイホームと物欲の関係性の話。

先週末、ONE JAPANのオンラインイベントに出演する関係で銀座のホテルに行ったわけですが(そんな努力むなしくzoomが落ちたことは軽くトラウマですが)、せっかくの銀座なので帰りに久々に街歩きした。

もうすっかり、人は往時に近い量に戻っていて、歩行者天国甲斐のある賑わい。小雨の銀座。なんだか気分がウキウキする日曜。なのにどうも、物欲センサーが働かない。鈍ってしまってわからなくなっているというよりも、実感としては、”欲しいものがない”感じ。これまでであればこの街は、物欲には引っかかるものがまあまああり、しかしお財布との相談の結果、これは目を肥やすための時間であると言い聞かせて退散というパターンだったはずなのに、引っかからない。

なんだか、自分の物欲が過度に「本質化」されてしまった、そんな感じがした。本当に欲しいものしか欲しくない。そしてそれは結構、直感でわかる気がする。だから、パッとみてなんとも思わないものを、後から情報やらお得感やらでまくることが脳の中で起こらない。結果として、何か自分とは関係のない物事が目の前をサラサラと流れていく感覚がずっと続いて。

===

フィールドリサーチの手法に「違背実験」というのがあって。何か特定のモノやコトに対して対象者の評価や心情、価値観を測るべく、あえて一定期間それを禁じて、その期間に感じたことや明けた後に感じたことを記述するアプローチ。一度だけ僕も実務で、炭酸大好きな方々から3週間取り上げるという鬼畜の所業をやったことがある。ちなみにめっちゃ色々発見がありました。

おそらく僕は、この半年、物欲の本質を知るための「買い物違背実験」を、図らずも自分に課してたんだと思う。対象がはっきりした買い物はやってたが、あてどもなくその場に行ってブラブラと「欲しいものを探す」行為をほとんどやっていなかったことに、こうして改めて気づいた訳で。ああどっか行きてーなーとか、全く不必要なものをノリだけで買いたいなーとか、dマガジンを家でめくりながら思っていたはずなのに、その間に自分の物欲はとってもエッセンシャルになってしまっていた。かの有名なコピー「欲しいものが欲しいわ」という心境で銀座に行ったはずなのに、そこで感じた結論は「欲しいものが欲しいとか、そういう手段の目的化はいいよ。欲しいものは、その時にわかるから」。

本当に大事なことは失われて初めて気づくとはよくいったもので。僕の物欲との関係性はこうして、エッセンシャルになってしまったとさ。まあそのうちまた、この大事さは慣れとともに忘れられ、欲しいものを欲しがる日々がきたらそれはまたそれで、幸せなことということで。

サポートありがとうございます! 今後の記事への要望や「こんなの書いて!」などあればコメント欄で教えていただけると幸いです!