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序 1. はじめに

ここ日本では、遠くない将来、元号が変わろうとしている。思えば、平成と名付けられたこの約30年は、とてももどかしい時代だったと言えるかもしれない。グローバル資本主義経済、阪神・淡路大震災、オウム真理教による一連の事件、アメリカ同時多発テロ、リーマンショック、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故――。経済の大きな波と自然災害と突発的な人災に翻弄された時代だった。災禍はいつか訪れるだろう遠いものではなく、いつでも訪れ得る日常的な存在となった。そのたびに人々は不安を抱えた。隣人とのつながりを断たれ、さまよいながら生きた人もいるだろう。答えは簡単には得られないことがわかっていたけれど、渇望せずにはいられなかった。模索と試行はいつももどかしかった。不安と緊張のなか、思いはやり切れず、いつしか味気ない空漠となった。薄くはない諦念を纏いながら、人々は食いしばって生きたり、そういうものだと冷めて生きたり、何もない空虚さをただ見続けたり、確かなものを探して身近な手触りを大事に慈しんだり、だからこそ声を上げるのだと果敢に行動を奮い起こしたり、自分の領域に閉じこもって幸せを自足したりした。けれどこれまでの方法が通用しなくなったことはどうやら確かであろう事実で、だからこれからの生き方を考えなくてはいけないと、多少なりとも、誰しもが思い始めた時代だった[1]。数十年後に振り返れば、もしかしたら平成という時代は、来るべき次代のための余白のような時間だったのかもしれない。

[1] こうした時代認識は、例えば東京都写真美術館『総合開館20周年記念TOPコレクション「いま、ここにいる」平成をスクロールする 春期』展(2017年)に端的に表れている。

そうしたなかでアートは、アートに何ができるのかと、いつになく真剣に問われた時代だったと思う。時の政権への批判や、経済格差や移民問題といった社会的な事柄を炙り出すこと、あるいは道標なき時代に何らかの指針を示すことが、アートにできる――またはアートに課せられた――ほとんど唯一の役割なのだと考える人は、決して少なくなかった。ある人は世界中の路地を行きながら「少数者」とされた人々の声に耳を傾けることで、またある人は最先端の技術を追求したり、多大な資本を集中させたりして、それを実現しようとした。かたや、そうしたことに目を向けず、自分の抱える欲求を自分にできる方法で発散させる人もいれば、自分の手の届かない大きなことよりも、暮らしや日常のような小さな事柄を丁寧に紡いでいく人もいた。アートとはそもそも社会的な産物であるが、果たしてその社会とは何だったのかを、アートを通じて考えた時代だったとも言えるだろう。その社会が不安定にさらされるほど、人はアートを求め、あるいはアーティストはその言動を切望されもした。


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