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5年前と5年後の中間地点

誕生日の1週間前、免許更新をするために江東運転免許試験場に向かった。
東京メトロ東陽町駅から徒歩5分。免許の更新は二度目だったが、江東試験場に行くのは初めてだった。

駅を降りてグーグルマップに従って歩いていると、「運転試験場近道 徒歩2分」と書かれた看板が目に入った。印字された文字がはげかけていて、どこか手製という感じがした。近道ということばに誘われ矢印の指す道に入ると、住宅街の裏道のような細い路地が続いていた。
少し不安になっていると、フェンスや階段の段差など道のそこらに「免許更新・失効証明写真」「撮影前のヘアーカットはこちら」「視力検査無料!」といった広告が貼ってあることに気づく。なるほど、運転試験場で食べている人たちもいるのだ。ここにいてよかったのだとほっとした。

試験場に到着し、通知ハガキと今の免許証を見せながら受付、視力検査、申請などをする。30分の講習は短すぎるようにも思った。優良ドライバー向けだからだろうか? といっても私のように運転のためでなく身分証のために受講している人がほとんどなのでは、とひそかに思った。30分の時間を守るためか、先生がビデオの途中でスイッチを切った。

交付された新しい免許証を見つめる。表面に堂々と今の住所が記されている。この5年間引っ越しを繰り返してきたので、古い免許証の裏側には住所の記録が黒い文字でびっしり書かれていた。

5年前から住んでいる場所も、仕事も、付き合っている人も変わった。運動もはじめたしお化粧の仕方も変えたから、きっと顔つきも違っている。それでも私は、この5年間を延長線のように思っていた。けれど二つの免許証を見て、そうではなかったのだとはっきりわかった。

5年前の私は、そのときの今が永遠に続くものだと信じていた。でも、そのときの自分はただその“点”に立っているだけだったのだ。偶然の巡り合わせで、奇跡のようなバランスで、信じられない脆さで、点は成り立っていた。点を延ばして線にすることはできない。日々たくさんの点を打って、結果的に線に見えるようになるだけなのだ。5年前も今も。

その“点”から、ずいぶん遠くまできてしまったような感覚を覚えた。免許証が変わっただけで、なぜこんなに感傷的になっているのかわからなかった。でもこの5年間、私は確かにこの身分証に守られていたのだ。もう二度と訪れることのない2016年の古い住所の記憶に。

その日読んだ小説に、「結局のところ、文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。」という一節があった。何度も読んだ本なのに、生まれて初めて出会ったように胸を打った。
絶対に忘れない、忘れられるわけないと誓った記憶も、薄く、しかし確実に失われはじめていた。克明な記憶は克明すぎてまっすぐ見ることさえできないが、不完全な記憶はその不完全さゆえに残しておけるのかもしれない。

新しい身分証は新しい人生のような気さえする。それでも過去は、点は、裏面が真っ黒になった免許証は、存在した。いずれその住所をそらで言えなくなったとしても。
後ろ暗いところのないピカピカの免許証と、穴の空けられた免許証。しまう前にもう一度見ると、見慣れない5年後の日付が記されていた。

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