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前世のことみたい

年々、できなくなることが増えていく。朝まで飲んでそのまま仕事するとか、カップラーメンを完食するとか、青春十八きっぷを使ってオール鈍行で北海道へ行くとか。そうしたことができなくなるのは、体力的な衰えによるものが大きい。

一方で、生理的に無理だと思ったり、どうしてあんなことができたのだろうと思い返すこともある。

例えば、手の届く高さで鳴いている蝉を人差し指と親指でつかんで捕まえること。幼い頃に掴んだ蝉の体の油のべたつきと、震える振動を今でもこの手のひらに覚えている。
昨年の夏も、旅先で電柱にとまっている蝉を発見したが、捕まえるどころか恐怖を感じた。小学生の頃は生き物好きな父と100匹近いカブトムシを捕まえてきて世話をしていた時もあったし、高校生の頃は道端で捕まえたイモリを自分の部屋で飼っていたこともあったのに。今、こうして書いているだけでも、鳥肌が立ちそうな気持ち悪さをおぼえる。

それから「アームカット」。どこでその術を知ったのだったろうか。大学受験のプレッシャーと不安に押しつぶされそうになるたび、手首ではなくて、その少し上の腕をカッターナイフで傷つけていた。今となっては包丁で少し指先を切っただけでさえも、大騒ぎして絆創膏を探すのに。
人よりも傷跡が残りやすい体質だと気づいてやめようと決意し、耐えがたい思いが沸き上がるたびに、腕を見ないようにして切りたくなる衝動を堪えていた。傷跡は薄れていき、今はもう、私の腕を見つめる人はいない。

今となっては、絶対にできない!
あんな、気持ち悪いことや、痛いこと。

蝉を捕まえていたことも、腕を切っていたことも、なんだかもう、前世のことみたい。それぐらい現実感がない。それでも、蝉の捕まえ方のコツを何も見ないでもここに書けるレベルで覚えているし、腕にはうっすらまだ痕が残っているから今世のことなのだ、と、それでも他人事のように思う。

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