自伝小説 帰る場所 ②
怪しい隣人
ボロアパートの隣人は、接骨院の看板を掲げた一人暮らしのおばさんだった。
引っ越しの挨拶に行ったとき、家中を埋め尽くすおびただしい数の人形たちに驚いて、叫んでしまいそうになるのを必死に堪えた。ミコトは引き返そうとしたが私は彼女の腕をつかんで引き止めた。
こちらをじっと見ているチリチリパーマのおばさんに、ひきつりながら笑顔を作ってタオルを渡した。
「あの、隣に越してきました西森と江川です。これからよろしくお願いします」
「若い女の子の二人暮らしなの?うちはたくさん子供がいるんだけどね、みんなおとなしい子なの。静かに暮らしてるから、うるさくしないでね。よろしくね」
ちゃぶ台とテーブルのまわりには人間の子供くらいある大きな人形が何体も置かれていた。よだれ掛けをした赤ちゃんの人形、パジャマを着た男の子の人形、汚れて色褪せたピンクのドレスを着た女の子の人形。大昔に流行ったキャベツ人形。
キャベツ人形は全裸に紙オムツを穿いていた。
その光景はお化け屋敷よりよっぽどホラーだった。
「うわあ、だ、大家族なんですね!」
私はなんとか社交辞令を言ったけど、ミコトはかたまってなにもしゃべらなかった。無理もない。
ちゃぶ台の上に哺乳瓶や、ままごとで使うプラスティックの料理が置かれていた。おばさんの食べていたものは缶詰めのサバとカレーで、庭から迷い込んだハエだけが元気に飛び回っていた。
衝撃的な隣人だった。部屋に帰ってから二人で声をひそめて、ヤバい、恐ろしい、ヤバすぎる、怖すぎると転げ回った。
ミコトがいてくれてよかった。一人暮らしだったら、恐ろしくてとても絶えられなかったと思う。
そして残念というかやっぱりというか、おばさんはエキセントリックなだけでなく、異常に神経質で攻撃的だった。
私とミコトが大きな笑い声をあげた次の瞬間、おばさんは壁をドンドン叩いてきた。
階段の昇り降りのとき、歌番組のボリュームを上げた瞬間、お皿を落としてしまったとき。
いつも壁の向こうで叩くために待機してるんじゃないかと思うような素早すぎるレスポンス。
叩かれるたびに壁の砂がパラパラ落ちて、いつかこの壁はおばさんの打撃で壊れるだろうとおびえた。
数ヶ月経ったころ、ミコトに彼が出来た。彼は二十歳で名前をケンちゃんといった。彼はもともと喫茶店のお客さんだったらしい。
私が仕事を終えて帰宅するとケンちゃんはミコトの作ったご飯を食べ、テレビを見てくつろいでいた。
その日、ケンちゃんはちゃぶ台を片付け、畳に座布団を並べて泊まっていった。
そしてひと月も経ったころにはケンちゃんが普通に家にいる日が増えた。ミコトは布団を下ろして1階でケンちゃんと一緒に寝るようになった。
ミコトは優しいし料理もうまい。よほど居心地がよかったんだろう。そのうちケンちゃんは当然のように自分の友達を招くようになった。
仕事から帰るとシャコタンのクレスタがアパートの近くに路駐されていて、玄関を開けると乱雑に置かれた靴の臭いが鼻をつく。男の子ニ、三人がちゃぶ台を囲んで、ミコトの作ったご飯を食べていた。
気持ちはわかるが、これはちょっと、いくらなんでもあんまりだ。二人で借りてる部屋なのに。
「おかえりー」
「おかえりなさーい」
そう思ってもつい、おかえりと言われれば笑ってただいまと答えてしまう。
ケンちゃんはTシャツに短パンでビールを飲んでいる。まるでこの家のお父さんだ。
ミコトは茶碗に炊き立てのご飯をよそってくれる。
そのご飯が美味しすぎて、私はケンちゃんはともかく、彼の友達まで家に招かないでほしいとは言い出せずにいた。
ミコトから、ケンちゃんの友達と付き合う気はないかと聞かれたことがある。カネダくん、フジモトくん、タカシくん。
彼らは皆優しくていい人だったけど、ジャージを着て女物のサンダルをつっかけ、見るからにヤンキーっぽかった。
私は当時流行していたDCブランドの洋服屋でバイトしていて、ギャルソンやヨージを着こなす気怠い雰囲気の人に憧れていた。
シャコタンのクレスタより、ミニクーパーやビートルに乗る人と付き合いたかった。自分はこんな和式便所のボロアパートに住んでいるくせに、ジャージを着た人と付き合うなんて絶対無理だと思っていた。私は変なプライドだけが高かったし、ものすごい見栄っ張りだった。自分に自信がなかったし、どこにいても居場所がない感覚と闘っていた。
買い出しのときはフジモトくんが車を出してくれた。ついでに港までドライブするのが好きだった。海を見ると遠くに行きたくなる。
ユーロビートをガンガンにかけて、彼らは楽しそうに港で踊った。港には何台も族車や走り屋がいて、車を見せびらかしていた。髪を金色に染めた痩せた女の子がこっちをじっと見ていて緊張した。
私はヤンキーじゃない、仲間じゃないと思いながら車に乗っていた。恥ずかしくて、トイレ以外は車から降りられなかった。
そして突然、悲しい日は来てしまった。
その日はケンちゃんが肉を大量に買ってきて、みんなで鍋を囲んでいた。みんなが笑うといつものようにおばさんが壁を叩いてきた。
「うるさいーーーーっ!うるさいーーーーっ!あああああああッ!」
おばさんの絶叫も聞こえてきた。
いつもならみんな黙る。だけど、その日はそれで終わらなかった。ビールを飲み過ぎたケンちゃんたちがブチ切れて、初めて壁を叩き返して叫んだのだ。
「うるせえのはそっちだろうが、このクソババアッ!! 」
「テメェ気持ち悪いんだよクソババア!!ぶっ殺すぞ! 」
殺すはまずいとミコトが慌てて止めに入った。
「ちょっとケンちゃん、それくらいにしといて。あとで文句言われるのあたしたちだから! 」
だけど、遅かった。翌日の朝早く、大家さんが部屋に乗り込んできたのだ。
「真面目そうな顔に騙されたよ。女の子二人だっていうから安心してたのに、暴走族の溜まり場になってるんだって? 不良は今すぐ出て行ってくれ! 」
おばさんは大家さんに大袈裟にチクったのだ。今なら居住権がどうのこうのとわかるけど、無知な子供だった私たちは反論もできなかったし、言われるがままだった。
それに、ケンちゃんたちは暴走族ではなかったけれど、まじめな人たちともいえなかった。
ミコトにこれからどうするか相談すると、自分はケンちゃんと暮らしたいと申し訳なさそうに言う。
「あたしのせいで追い出されたのにホント悪いんだけど、ケンちゃんが仕事見つけたら結婚しようって言ってくれたから……。ごめんね……」
そうか、そうなのか……。
すごくモヤモヤしたし寂しかったけど、もう仕方ない。もし私が逆の立場でも、女友達よりも彼と暮らすことを選んだと思う。
こうして、ミコトとの幸せな暮らしはわずか数ヶ月で終わりを告げた。
ミコトが解約の手続きに行っても、三ヶ月分の敷金も返してもらえなかったらしい。
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