古川孝次の私小説(2)

小学校の6年生になって、中学生に進学する話が出た。
父は当然の様に兄の通う私立中学に私も入るだろうと思っていた。
しかし、その中学の校則でボウズにされるということ。私は
「イヤダ!」
と普通の髪型にできる別の私立にも入れるでは無いかと駄々をこねた。
しかし、私の悲痛の叫びは通ず、小学6年生の反対運動は不発に終わる。

その後に高校受験。学力に不安があったのだが、周りの友達は高校の受験は形式的なもので落ちることはないと聞きホッとする。その通りに高校に入学。
次は大学入試である。
元々大学の附属の中学・高校であったため90%は経済系の大学にそのままスライドしていくことになる。

私はここでも反発する。
「いや、違う!」
私は人と同じような事を選ぶということが考えらられず、高校2年生の時から私は美術大学に進もうと決め、秘かにデッサン塾に通って用意をしていたのだ。
周りはトコロテン式に附属元の大学へ行ったのであるが、私は1浪し、難関の多摩美術大学に受かった。

その受験は私にとってはとてもラッキーであった。

そのわけは当時は大学闘争が頻繁に起こっていた時代。多摩美術大学も一部がロックアウト。私はデッサンは真面目に学んでいたのだが、その他の学科(英語、歴史、そして数学)は1日たりとも本を開いたことがなかった。当然、落ちるのを覚悟して、お正月にもう1浪と父に頼んでみたがやはりダメ。思案していると友人から
「おい古川、学科免除のデッサンのみの受験があるぞ」
と聞き、私は小躍りした。

私の人生にはラッキー3つあるが、最初のラッキーはこれである。

高校時代にエキセントリックパーソンクラブという訳のわからない仲間のサークルを作って遊んでいたのだが、どうも私は群れの中にいると心地悪い。
それでも大学からパーティ券がまわってきて、当時1,000円ぐらい、3枚あったうち2枚を悪友に売り、残り1枚を使い高校生というの隠してダンスにこうじていた。

私はダンスが好き。元々自分を表現するのが好きかもしれない。というか、人間って、自分の存在をどこかでアピールしたいのだ!!と、私はダンスを極めるべく、1人で新幹線に乗って、東京に行った。その当時は東京のダンスホールやスナックなど大小様々なダンスが踊れる場所があり、チェックして六本木などをハシゴしたものである。

今、私は自分の青春期というとても楽しいかったこと書いている。
青春期の楽しい事を書き残さなければ、自分の存在意義がないと思う位。
しっかりアピールしたい。

高校時代のエピソードをさらに書いてみたい。
高校生1年ぐらいだったか?ギターはエレキ派かフォーク派かと何かと区分けしていた時代である。私はフォークソングのグループに入り、パーカッションとハーモニーのパートを担当していた。
バンド名はイエローストーンズとしていたと思い出した。
ピーターポール&マリーやフォーシーズンやらアメリカのフォークソングを真似て、悦に浸っていたものである。

そんな時、父から
「あの町内のアーケード街の真ん中でステージを作るのだが、君たちも唄ってこい」
と言われた。断る理由はなかった。

バンドの構成は女性1、男性3。女性はとってもボーイッシュで私の憧れの女性であった。メインボーカルS君とその女の子がわたしからみてとても良い関係と思った。私もその女性にほのかに恋を持って接していたのである。
そんな時、S君の父親の持つ別荘地に遊びにいくことが決まった。そこまではS君の運転、ホンダS800のオープンカーで移動することに。憧れのあの子は助手席に私は後部座席である。キャンプファイヤーが終わり、みんなで寝ようとそれぞれ布団に入ったが、寝静まった頃、ボーカルの女の子が私をまたいで外に出た。目を覚ました私はついていく。
外で、その女の子に話を聞くと失恋して悲しいとトツトツ話す。私は慰めた。そうしているうちに女の子は私に好意をもち、その一晩で私の恋人になってしまったのだ。憧れの女性が恋人へと一変する事件。人生って不思議なものである。
帰りは運転席にS君。後部座席に私とその女の子となってしまったのである。まるで映画のよう…。S君には申し訳ない気持ち半分、女の子への気持ち半分で複雑な気持ちが交錯していた。

名古屋に帰ってから、そこから私の青春時代はバラ色であった。が、その女の子はそのときには結婚適齢期、私は大学の進学がある。葛藤が始まっていた。そんな中、女の子の親が見合い話を進め、結婚してしまう。

初恋は実らないということは本当であった。

この話にはオチがある。そのオチは後で語ろう。2つ目のラッキーとも絡むのである。

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