古川孝次の私小説(4)

私の青春時代、16歳ぐらいであっただろうか?
「大人の普通の生活」「変化のない平々凡々」
という言葉に凝縮された平凡に生きられたらそれで幸せという言葉をよく聞いた。

私はこんな考え方はまるっきり考えられなかった。
私の物語はこのことからスタートする。

それこそ変化のあった生活。それこそ波乱万丈でもいいと思ったりもしていた。とはいえ、私は月曜日~金曜日までは勉強であったり、仕事をしていた時もある。その時は土曜日が待ち遠しくしていた。

土曜日には非日常になるんだといつも思って実行していた。この土曜日の非日常がずいぶん長く私のルーティンになっていた。学生時代を東京で過ごしていたが、土曜日になると新宿の映画館の2つ3つをハシゴしていたものである。その後に歌舞伎町の中に入って、朝まで遊ぶ。そして、月曜日の朝…。通勤電車のサラリーマンが仕事に出かける満員電車を見ながら、私はその反対方向を進む電車に乗りアパートに帰ったものである。

その時に歌舞伎町の麻雀店にも通ったこともある。もちろんフリー店である。何かにつけて1人遊びが好きなのかもしれない。

閑話。たまに映画の話が盛り上がり、友人と一緒に映画に行くこともあるが、映画が全く楽しめない。私の場合は映画は1人で見るのが絶対である。付き合いで自分の楽しめない映画を見た時はいつも
「次は絶対に一人でいく」
と後悔したものである。

麻雀もそうである。一人でふらっとフリー店へ出向いて遊ぶのが好きだった。大学を卒業してからしばらくして名古屋に戻ったのであるが、当時は競技麻雀っていうジャンルが大きな話題になっていた。
その時代にあった麻雀雑誌に東京の近況がニュースみたく報道されていた。
当時の若手プロたちが大きく某雑誌に名前も公表されていて、若手プロたちが沢山誕生した時代でもあった。私は伊藤優孝プロが私の年と同じであるということもあって、特に注目していた。いや、むしろ近親感を抱いていたのかもしれない。その伊藤プロらの若手プロ達のたまり場になって、ひっきりなしに麻雀を打ちに来ていたフリー店が当時の渋谷場外馬券場の近くにあった。お店の名前は忘れてしまった。麻雀雑誌に伊藤優孝プロ在籍と書いてあったので麻雀雑誌の地図を片手に若手プロ達がいるところに入っていったのである。
伊藤優孝プロとは打つ機会があり、心の中で小躍りした。しかし、同卓して麻雀を打ってみたがあいさつもできず、打っただけで名古屋に帰った。この時は日帰りである。

麻雀のプロという世界があるのだと再認識した。

私は名古屋に帰って、デザイン事務所を開いてこの事業で飯を食っていくんだと覚悟を決めた。そして結婚もした。
この麻雀との出会いがわたしをまたまた波乱万丈の世界へと突っ走っていくのである。

人は自分の興味あるものに惹かれる。惹かれたものが自分の職に反映されるのが幸せだというものである。それから本格的に麻雀を仕事とした。
名古屋で雀荘経営していく。しかし、大学でデザインを勉強していたものが経済学とか商売とはなんだと問われるととんと知識が無い。好きだからやっていると突っ走ってきた。勢いがある時はどんどん店舗を増やし、スタッフとの出会いもあった。しかし、売上もお客さんも減少していく。ここで経営者の質が問われるがとんと自信がない。詰まった時の答えは無くどんどん衰退していく中、どうにも止めることができず、いくつかあったお店を1つ売り、2つ売り…そしてすべてのお店を売って事実上の倒産。

友人たちは少しの金を握って、計画倒産にしたほうが良いというのだが、私はそれが出来なかった。いったんチャラにしてまたいつか復帰して見せると心に誓ってから30年近くたつ。再浮上はというといまだその自覚がない。まだまだ先かなぁと思っているが、まだ私は諦めていない自分がいる。

夢を再興させる野望が無くなったらただのじじいである。

と奮起するが、夢は永遠ではなく、まだ復帰の手ごたえはないのである。

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