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9月号時評

   短歌史と歌人史

 七月十日、岡井隆が亡くなった。
 「アララギの歌人を両親に持ち十代から作歌を始め、『未来』創刊よりの中心歌人。昭和三十年代に興った前衛短歌運動の白眉であり、その後の現代短歌を牽引し続けた。」
 もし彼の説明をするならばこんな風にまとめられるのだろう。
 私が岡井さんと多少なりとも交流があったのは九十年代、「東桜歌会」という超結社の歌会が名古屋にあって三年半ほどの間そこで月に一回顔を合わせていた。月に一回というのは岡井さんがカルチャー講座を持つ日に合わせて集まっていたからで、同様の会が大阪や京都でもあったという。もちろん東京にもあって、「首都の会」と名のついたそこにも一度だけ参加したことがある。
 優れた歌人は優れた指導者でもある。それは間違いないのだが、私には岡井さんが「指導」のために歌会を開いていたとは思えない。彼は心から歌会を楽しみ、若い世代のあらゆる稚拙で雑多な表現を面白がっていた。歌会の稔りを一番吸収していたのは岡井さんだったのではないかとさえ思う。
 だから、「前衛」が「先駆的で実験的な創作を試みる」という意味ならばそうかな、と思うが、「昭和三十年代に興った社会性・抽象性に富む」という意味で「前衛歌人」と言うのならば、それには疑問を持ってしまう。
 たとえば、「コロナ禍」という言葉を私は気持ちが悪くて使えない。その理由をはっきり言語化するのは難しいけれど、状況を端的に説明できる便利さ、その便利さゆえになにかが違う、と嫌悪するのだ。
 「前衛短歌」「カルチャー歌人」「ライトヴァース」「口語短歌」「学生短歌」「ネット歌人」。
 戦後の短歌史はおそらくこのような言葉で説明されていくのだろう。しかし、そこにもやもやと嫌な欠落感がないだろうか。
 岡井隆が前衛短歌を作ったのではなく、その時代に彼らが作ったものが前衛短歌と呼ばれた。括りというものは語り継ぐときに確かに必要なものなのだが、(すべての歴史はそうなのだろうが)それは後付けであって強引なものである。
 私は、短歌史と並行して歌人史があるといいと思う。どのような歌人がどのような交流をしたか、また、ひとりの歌人がどのように生きて、その都度どんな短歌を残したのか。
 適当に区切った時間の流れの中に人間を置くのではなく、人間が生きている時間の中になにかの凝り、なにかの交錯を見るような、そんな視点が必要ではないかと思う。
 すっきり分類して説明できたら楽だなとも思うが、短歌の面白さは、その混じり合う曖昧さこそではないかと思う。また、これから先の「壇」の希薄な短歌の世界を語るのにも必要な切り口ではないだろうか。
 短歌は生きた人間が作っている。作品だけを取り出して箱に入れて分類できるものではない。
 作者より、作品より、あらかじめ決められた読み方を先に知ってしまうなんて、そんなつまらないことはないと思うのだが、どうだろうか。
                         (富田睦子)