年間テーマ「ユーモア」③

ユーモアの価値 
      広坂早苗 

 「ユーモア」とは、くすっと笑ってしまうような「おかしさ」のことだと何となく思っていたが、調べてみるともう少し限定された意味合いのあることがわかった。手元の電子辞書には「人を傷つけない上品なおかしみやしゃれ。知的なウィットや意志的な風刺に対してゆとりや寛大さを伴うもの」(日本国語大辞典)、「基本的美的範疇の一つ。ラテン語のhumorに由来し、本来は湿気、体液の意。邦訳としては有情滑稽などと訳され、知的な機知(ウイット、エスプリ)に対して感情的なものとされる」(ブリタニカ国際大百科事典)という説明がある。
 演芸作家の織田正吉は、『笑いとユーモア』(一九七九年)において、笑いを大きく三つに分類している。「人を刺す笑い」の「ウィット」、「人をたのしませる笑い」の「コミック」、そして「人を救う笑い」の「ユーモア」である。この「人を救う笑い」について、織田は、マーク・トウェインの「人間世界のことはすべてうらかなしい。ユーモアそれ自体のかくれた源は、よろこびではなく、かなしみだ。天国にユーモアはない」という言葉を引いて、「人間の弱さ、人間が生きていくことのつらさ、かなしさへの同情と共感を笑いというかたちで示したもの」であると説明している。「第三者の目」「遊びの心」「価値の入替」などによって、生のつらさやかなしさを笑いに変換したものがユーモアだという。
 国語学者の中村明は、『日本語 笑いの技法辞典』の中で、笑いを誘発する日本語の発想と表現を十二類二八七種に分類している。十二類とは「展開」「間接」「転換」「多重」「拡大」「逸脱」「摩擦」「人物」「対人」「失態」「妙想」「機微」で、この排列の順に「小手先のテクニックでつくりだす浅い笑い」から「人間という存在や人生の不可思議を味わう深い笑い」へ、笑いの深さや奥行きが増すのだという。十二類の最後に「機微」があり、この「機微」の最後に「ヒューマー」(ユーモア)が置かれていることから、中村が「ヒューマー」を、人間存在の機微に関わる最も深い笑いと捉えていることがわかる。ちなみに「ヒューマー」の一例として挙げられているのが、小津安二郎監督の映画『秋刀魚の味』の中で、娘を嫁がせた父親役の笠智衆が発する一言である。詳細は省くが、そのしみじみとした一言の中に漂うおかしさを、中村は「人との出会いと別れが背中合わせになっている現実に気づくと、《ヒューマー》という深いおかしみとなってしみじみと薫り立つ」と説明している。
 このような「ヒューマー(ユーモア)」を湛えた短歌について、思い当たるものを挙げてみたい。

  せがれの子の二人童子をうち払ひ威風そよがせ厠に向かふ
  冷えしるき雨水の夕べタコ焼に身を灼きながらものをこそ思へ
    静かなる風情に舗道ゆく柴犬がダックスフントを無視するところ
  義理堅く行屎送尿にはげむ身やきさらぎ深夜の寒に出で立つ
  豆大福二個三百円をぶらさげて幸ある人のごとく帰りき
  人ならば莞爾と笑まふ図とならむ老レトリバー尾をふる俺に
  痛ましく或るときは見え金正恩の肉に埋もれてゆく坊やづら
  湯上りの濡るる産毛や歯にあててはかなき豆をしごき出すなり

 島田修三の『露台亭夜曲』(二〇二〇年)より。島田はとりわけ「人を刺す笑い」が得意な歌人であるが、近年、笑いの中にしみじみとしたものの漂う歌が多くなったように思う。
 第一首の「二人童子」は孫(と言わないところがいい)。「うち払ひ」「威風そよがせ」と時代劇の殿様のような威厳を示しながら、本人は実はトイレへ行くだけなのだから脱力してしまう。でも一方で、幼い孫にまとわりつかれてなかなか用も足せない作者の姿が見えて、何かほほえましい気持ちになる。
 第三首は散歩している犬を観察したのだろう。島田には犬や烏などの小動物をユーモラスに歌った歌が存外多い。この歌のダックスフントは柴犬に興味を示したのであろうが、柴犬は素知らぬ顔である。興味のない相手をあっさりと無視するその姿勢を、作者はおかしくも爽快にも感じたのだろう。人間同士だとこんなにあからさまにはできないものだ。
 第五首は、「二個三百円」の大福を手に嬉々として帰る大人の姿が笑いを誘うのだが、一方でうらがなしさも漂う。我々の幸福とは大概こんなに些細で安価なものだといううらがなしさを読み手は感ずるのである。もちろんそこには共感も流れる。
 うらがなしいと言えば、第七首の金正恩も滑稽でうらがなしい。国民の多くがやせ衰えている国で、独裁的指導者一人が醜く肥満し(最近急激に痩せたようだが)、しかもいかにも不健康そうで、幸福と縁遠い感じがするのである。
 第八首の「湯上りの濡るる産毛」は官能的なタッチだが、茹でた枝豆か何かの鞘だとわかって笑える。けれども、我々はこんな「はかない」ことに懸命になって日々を生きている。そんな人間存在のはかなさ、たわいのなさがいとおしくなるような一首であると思う。

  剃髪の頭をときに撫でながら酌み交わすこれは智慧の水なり
  泡般若・洋般若はビール・ウイスキー 智慧の水とて僧は嗜む
  折り込みのチラシに三枚霊園の案内まじり今日より彼岸会
  早朝を僧がそろりと草抜くは重厚ならず腰痛のゆえ
  忘れたる躑躅の刈り込みせんと来て鳥の巣あればながめて帰る
  イヌガラシ ムラサキカタバミ オオバコと呼びつつ抜けば供養のごとし
  忙しい忙しいとは言う日々の嘆かうほどのゆとりはあるなり
  怒りごとひとつ抱える僧形の頭を撫でて吹く若葉風

 大下一真の『漆桶』(二〇二一年)より。鎌倉の名刹の住職である大下には、僧侶の仕事や日常を対象化する作品が多くあり、その中には笑いを誘う歌も多い。 
 第一首と第二首は酒宴の歌。仏教では飲酒が戒められていることから、「智慧の水」と言い訳をしたり、「泡般若(ビール)」「洋般若(ウイスキー)」と隠語(?)で言い換えたりして酒を飲んでいる僧の姿がおかしい。大手を振って飲むのではなく、言葉の上だけかもしれないが、やや遠慮をしながら「嗜む」僧たちの姿に、親しみや共感を覚える。
 第五首は結句の「ながめて」に心を惹かれる。剪定に来た木に鳥の巣を発見し、逡巡する一瞬の心がこの一語から窺える。結局剪定をあきらめて帰るのだが、その姿は間が抜けている一方で、小林一茶の句を想起させるようなあたたかみをもつ。
 第六首にも笑った。雑草にも命があることを知る和尚は、名を呼ぶという「愛」の行為をしつつ、草を抜くのである。実際は草を根から引き抜いているのに、それを「供養のごとし」と言うところが矛盾していておかしいのだが、この言葉には小さな雑草の命への慈しみが感じられ、どこかあたたかいのである。
 第八首は「若葉風」に頭を撫でられなだめられている「僧」の姿に、笑いを誘われる。常に不完全な存在である人間を、こんなところに感じるのである。

  白よりも欲深さうなそれゆゑに悔い深さうな紅のばら
  ものおもひ暗澹たれどイマジンとひまじん似てることもおもへり
  老犬の介護をはりて子のもとへ越してゆきたる老夫婦いかに
  「お父さんよりは長生きしてね」つて言はれつつ食む娘のパスタ
  その夫の忌日忘れし母よろしその死忘れし姑なほよろし
  中日歌壇N氏かつての上司なり慎みてその歌をボツにす
  梅しろし夕風のみち帰りきていのち奇しくとんかつ食べぬ

 小島ゆかりの『雪麻呂』(二〇二一年)より。小島は失敗や困難をユーモアに転じて歌うのが上手な人である。老親の長い介護生活の中で編まれたこの歌集でも、そのユーモアは健在で救われる思いがした。
 第一首、確かに白よりも紅い薔薇の方が欲も悔いも深そうだ。それはつまり人間的だということで、親しみが湧く。
 第二首は、暗い気持ちのとき、なぜか馬鹿馬鹿しいことを思いついてひとり笑いしたという歌。人類の平和を願うビートルズの「イマジン」と間抜けな語感の「ひまじん」との差に、笑いを誘われる。
 第五首は、老化や認知症によって母や姑が記憶を喪っていくことを「よろし」と肯定する。悲しいことは忘れた方が本人にとっては幸せなのだと思えば、周囲の者は救われる。
 第七首、生への粛然とした思いを歌う第四句から、第五句の食欲への転換が笑いを誘う。人間はこういうものだなあと思うのである。

 織田は前掲書の終わりに「ユーモア感覚が最も力を発揮するのは、困難、逆境、対立、被害など、マイナスの事態が身のまわりに起こったときです」と記している。生きていく上で困難は避けられなくても、ユーモアに転じて切り抜けることは可能かもしれない。取り上げた歌集の作品を読みながら、ユーモアの価値を改めて思った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー