見出し画像

年間テーマ〈ユーモア〉①

2022年度のテーマ評論は「ユーモア」です。
1月号は
篠弘「序説・ユーモア」
柴田典昭「ユーモアは人を救う」
狩峰隆希「異質から可笑しみへの転化」
の3篇が掲載されています。
今月号からは柴田典昭「ユーモアは人を救う」を転載します。

ユーモアは人を救う                             柴田 典昭

 〈ユーモア〉、そして〈ユーモアの歌〉について考えるとき、ポイントとなるのは、それが〈笑い〉や〈笑いの歌〉と何処が異なるかだろう。高野公彦は『短歌練習帳』(二〇一三)の中で、〈ユーモアの歌〉とは「笑わせるために詠んだものではないが、おのずから笑いを誘う歌で、品格を保つもの」のことであり、〈笑いの歌〉とは「笑いを目的として詠まれた面白い歌。品格のことはあまり気にしない」もののことであると説明している。
 そこでは「品格」ということが一つの判断基準になっているように見えるが、それは高野だけの拘りということではない。多くの辞書に当たってみるとやはり〈ユーモア〉という言葉は「品格」という言葉を用いて説明されている場合が多いのである。
 高野が引く織田正吉『笑いとユーモア』(一九八六 ちくま文庫)の分類に拠れば、〈ウィット〉とは「人を刺す笑い」、〈コミック〉とは「人を楽しませる笑い」、そして〈ユーモア〉とは「人を救う笑い」のことだと言う。〈ユーモアの歌〉に於ける「品格」とは「人の救」いとなるか否かがポイントなのだろう。〈ユーモアの歌〉とは、ただ対象を笑いのめすというのではなく、大人の知恵の滲み出た、読者に安らぎ、和らぎの感覚が伝わるものと考えたい。
 ここでまず、高野『水の自画像』(二〇二一)の作品を引く。

  もみぢの葉日に洗はれて紅深し 歌人短命、うた詠み長寿(紅→こう)
  酔ひて思ふ海底に棲む鮟鱇は濡れてゐるから濡れることなし
  背を曲げて巻爪を切る苦しさの老キミヒコを誰も覗くな(巻爪→まきづめ・老→らう)
  誤用とはあつと驚く進化にて太宰治の〈貧すれば貪す〉
  歩きつつ〈位牌〉を覗く若者らみなマスクして令和二年初夏
  物欲の消えた老人 色欲が消えたら死人 わが生きて在り

 第一首には「歌人は文学の人、うた詠みは文芸の人。」という詞書がある。その第四句は「佳人薄命」をもじっている。なまじいに短歌を「文学」だと気負うから早くに命を落とすのだ、気負わず「文芸」の人、「歌詠み」に徹しようと言うのだ。第二首は「鮟鱇」の生態を借りて泥酔した自らを表現する面白さである。
 第三首から連想するのは宮柊二の『日本挽歌』に収められた、
  足の爪きれば乾きて飛びにけり誰に告ぐべしや身のさかり過ぐ
の一首である。結句からは『万葉集』の恋歌の常套表現「人に知らゆな」
も連想される。師の齢を超えて、老いの現実を生きる自らをはにかみなが  
らもいとおしんでいるのだろう。
 第四首には「『新釈諸国噺』の中の一篇「女賊」面白し。」という詞書がある。「貧すれば鈍す」を「貧すれば貪す」とした「誤用」は「女賊」の中にある。進化論の突然変異と同様にこの世のことは誤解、誤用で移り変わって行くのだと妙に納得しているのである。「あつと驚く」からハナ肇の「アッと驚く為五郎」を連想するのはやや古いか。第五首はかつて非常時に持ち出した「位牌」の代りに、コロナ禍の中でも「スマホ」を手放さない「若者」を訝しむ。第六首は「色欲が消えたら」の「ら」が巧みだ。谷崎潤一郎の『鍵』や『瘋癲老人日記』をふと思い出させるような面白さである。
 外山滋比古は『ユーモアのレッスン』(二〇〇三 中公新書)の中で、ユーモアのテクニックとして、⑴〈視点転換〉という「高次のコミュニケーション」に拠る方法、⑵〈衝突回避〉という「次元の違う論理に持ち込む」方法、⑶〈フラストレーション〉という相手の裏をかき、スカを食わす方法、⑷〈ひねり〉という「元の表現」との「ズレ」の「おかしみ、おもしろ味」を引き出す方法などを挙げる。さらに自身の新説として、⑸〈触媒〉という「不調和なもの」の「統合」による「爆発的緊張緩和」をもたらす方法を言い、その機能の大切さを説いている。
 高野の作品で言えば、第一首、第三首、第四首が⑷の方法を用いているのは当然として、そこに⑴、⑶などの方法が絡み合うことでユーモアの相乗作用がもたらされているようだ。第二首、第五首、第六首は⑴、⑵の方法のどちらとも言い難いが、そうした方法をベースにしつつ、⑶の方法もかなり意識されており、やはり複合的な味わいを感じる。外山は「イングリッシュ・ヒューマー」には「哀愁、感傷をおびる」傾向があると言うが、髙野には自らの老いを扱う〈ユーモアの歌〉も多いだけに、似た傾向があると言えようか。

  「お疲れ様でした」ナビに慇懃にいたわられ心のギアをバックに入れる
  マンションはどんどん背丈伸ばしゆき上から目線の人ばかり増ゆ
  ジーンズもシャツも細すぎ長すぎてわれにはついに縁なきユニクロ
  くるくると剝かれ吊るされ渋柿がおのれの渋を和らぐるまで
(和→やわ)
  世界遺産の準備おさおさ人類は心おきなく滅んでゆける
  少年老いやすく犬猫はもっと老いやすく日暮れの道を抱かれゆくなり

 久々湊盈子『麻裳よし』(二〇一九)より引く。第六首には「少年老い易く学成り難し」のもじりが見られるが、それ以外は見立ての面白さや意外さの楽しい作品で、外山の分類の⑴、⑵、⑶の方法が目立つ。とりわけ現代の世相、風俗に対する視線は鋭く、日常へと無遠慮に入り込んで来るものへの違和感を隠そうとしない。
 第一首は機械音が人間を労うことへの違和感、第二首は高層マンションの増加と「上から目線の人」の増加がリンクしていないかという気づき、第三首は痩身を良しとする時代の権化のような「ユニクロ」への反感、第四首は自身を含めて人という存在の救われなさ、第五首は「世界遺産」への登録には血眼になり「人新世」ということに実は無頓着な時代への憤りが歌われているだろうか。

  うつかりはサザエさんにもあったよネ財布わすれたわが身に言ひぬ
  厚化粧といはれて勝ちに出る人は気持ちよけれど票は入れずも
  ツイートつてつぶやくことね大統領老いたるひとは独善が好き
  東京のそら今日は怖いとおもふなりきれいな青空ひろがつてゐて
  欲うすくなりたるわれを疲れさすぎらぎらの才も焦りの才も
  欲望の塊ともピュアとも見え草間彌生の赤きかぼちやは

 池田はるみ『亀さんゐない』(二〇二〇)より引く。第一首は「サザエさん」の主題歌をもじっており、第四首は高村光太郎『智恵子抄』の中の「あどけない話」をベースにして、東京という都会を故郷とすることになった者のやるせなさを表現している。
 第二首は小池百合子都知事、第三首はトランプ前大統領、第五首、第六首は草間彌生を取り上げる作品。一庶民の目線で相手を捉えて、その才や特異性を理解しつつも、改めて一人の人として評価する姿勢が共通している。作者にとって、そして我々にとって、それが最も大切なことだからである。外山の言う⑵や⑶のような方法を選びながらも、自然体で歌うことで醸し出されるユーモアである。

  駅に来て小走りの人見かければわれも小走りきみも小走り
  足の爪あすは切らんと寝る前に思えり明日の夜も思うべし
   ふた駅のあいだに読みたる七ページ 嘘つきは私小説のはじまり
  「母はいま畑にいます」陽のそそぐ西瓜畑を思いて切りぬ
  御米より宗助さきに死ににけん崖下に住む宗助御米
  ほたるのひかりを全校生徒でうたい終え さあ校庭の桜伐らるる

 藤島秀憲『ミステリー』(二〇一九)より引く。第一首は与謝野晶子「ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟(皐月→さつき・仏蘭西→フランス・雛罌粟→コクリコ)」(『夏より秋へ』)に拠る表現。恋の絶唱をもじって卑小な日常に転じた面白さである。第三首は「嘘つきは泥棒の始まり」をもじった穂村弘の「ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり」(『シンジケート』)を更にもじった面白さ。「私小説」からして「私」をそのまま記してはいないという事実は短時間の読書でも分かると言うのだろう。
 第四首は応対の電話の言葉から、羅須地人協会の玄関脇の黒板に記されている「下ノ畑に居リマス賢治」が閃いたのだ。その母の姿を想像し、自らの母を懐かしむ。第五首は夏目漱石の『門』の侘び住まいの平安に憧れつつも、その後の現実を冷静に想像している。
 いずれも外山の言う⑷の〈ひねり〉が決まっている印象であるが、触れなかった第二首、第六首まで併せて考えると、⑶の〈フラストレーション〉、すなわち「スカを食らす」方法を熟知して、その表現が巧みな作者だと言えるのではないだろうか。
 こうした作品から感じられるのは、〈ユーモアの歌〉の面白さとはまず、読者を楽しませる仕掛けの面白さであり、知の閃きの面白さであるということだ。外山が言うように、「ユーモアとは説明ではなく、創作であり、フィクション」なのである。
 しかし、それだけではない。こうした作品は一人の人間として自分自身や対象となる人物などの面白味を引き出しつつ、それを大人の知恵で包んで、作者にも読者にも安らぎとささやかな生きる喜びを与えている。身の丈に合った生活を送り、身の丈に合った短歌を友としたいとき、〈ユーモアの歌〉とは一つの理想形と言えようか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー