時評2023年12月号
幻想を糸口として
本年の「まひる野」の年間テーマは「幻想とリアリズム」だったが、ここ数年のテーマのなかでもかなり難解に感じられた。私は三月号の論考で染野太朗『人魚』を取り上げ、集中に出てくる「人魚」を、「外的圧力という負荷エネルギーが放出されるとき、その矛先となる」存在として幻想の歌に位置付けた。そして「『人魚』が人間の真理に迫った歌集と感じられるのは、ある意味、幻想を内包するリアリズムという二重のリアリズムがとられているからではないか」と書いた。
この「人魚」的な幻想の性向は、今年出た染野の『人魚』に続く第三歌集『初恋』(書肆侃侃房)にもみることができる。
わが体(たい)のうちがはを游ぎおよぎつつ肺魚ときをり呼吸(いき)せむとする
呼吸せむとわが肩までを游ぎきて唇(くち)を突きだす人のやうな唇
肺魚わが肺を喰ひたりそののちを呼吸をわけ合ひこゑをわけ合ふ
「肺魚」と題する一連より。私の裡にある肺魚が呼吸を求めて、肩から唇を突き出し、それだけでは足らずに、肺を喰い破ってしまう。呼吸や声を分け合う肺魚との関係は慰みのようで、共倒れのようでもある。世界に対し真に呼吸を求める私の心が、肺魚に形象されているのだろう。生の喘ぎが感じられる。「人魚」の歌にあった幻想性は、このようなかたちで、今後も作者の作風に根を下ろしてゆくように思われる。
待望の第一歌集が次々に刊行されていっている。歌集収穫の年といわれた二〇一八年に匹敵するほどある。睦月都『Dance with the invisibles』(角川文化振興財団)は詩的思索性の高い一冊だが、そのなかで母との儚い関係を歌った次のような歌に注目した。
お母さんわたし幸せなのと何度言つても聞こえぬ母よ 銀杏ふる日の
わが気配泥にひとしく冷たしとわれを産みたる母は告げきぬ
夢の中にもひとまばらなる夢のなか母とゆく区営プラネタリウム
私の思いと母の思いとがすれ違って歯がゆさが残る。「母とゆく区営プラネタリウム」も、一見するとささやかだが、あくまで夢のなかの出来事であって、子供時代の思い出を顧みるように歌われるのが切ない。
この歌集には角川短歌賞受賞作「十七月の娘たち」が収められているが、当時の選考会では、一連に出てくる幻の娘とは何なのかが話題になった。私も連作単体では幻の娘について掴みがたい感じがあったが、今回歌集を通してみて、母から私に対する不安定な眼差し、その受け止めのようのないものが、私が幻の娘にみせる眼差しと通ってくるのが興味深いところであった。
鳥獣保護区に入りつつ反芻してゐたり女のひとの子どもを産む夢
あるいは、別の一連にあるこうした歌も含めて、歌集は産むことの幻想性を一つ訴えかけているようにも感じる。
短歌は、これまでリアリズムに執して語られる面が大きかったが、幻想の表現についてはいまだ模索の余地を残している。そんな思いを残す、この一年であった。
(狩峰隆希)