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年間テーマ〈特集「都市を詠む」〉⑦

さびしい都市の窓、それから虫(バグ)
          麻生由美

 「都市」と呟いて瞑目すれば浮かび上がるヴィジョン。それは、夜の東京。人工の光を放つ高層建築群。高架を過ぎてゆく電車の灯り。そこには人がいっぱいいて、それでいてひどくさびしい。もの悲しい。人気のない過疎地のさびしさとは異質のさびしさ。そのさびしさ、もの悲しさはどこから生まれるのだろう。
 「都市」の対である農村、あるいは地方のことから考えてみる。
   その昔、蓄音機から流れる「東京ラプソディ」の歌を聴いて育った田舎の若者たちは、やがて東京その他の大都市の人となり、そこで新しい家庭を作り、やがて都市近郊の墓地に入る。むろん、その子孫たちが田舎の家に戻って来ることはない。檀那寺の墓石に刻まれている「累代」や「代々」は「建之」の時点での願望であって、実際にはせいぜい三、四世代のことにすぎない。帰省した子や孫を容れることを前提に建てられた家屋には、大量の食器やお客布団が年々古色を増してゆき、家守の係累を悩ませる。
 こうして地方はすかすかになり、都市には大量の人間と富と知がぎっしりと集積していくのだ・・・。そのようなことが、人の音絶え、夜は原始の闇が広がる九州の山中では日々実感されるのだが、「くににおったら、飯が食われん。」という事態はもう数世紀も前から地球規模で徐々に進行していたのである。
 地方の人間には、こうして何もかも集めてしまう都市への憧憬とともに怨嗟や怖れのような感情があり、伊藤一彦の『火の橘』(一九八二年)の次のような歌については、そうだろう、そのとおりでしょう、きらびやかな大都市にはこんな闇があるのだよ、こわいねえ、などと二十世紀の間は思っていた。

  わかものの少なき湊汝もまたころされむために行くか東京
  啄木をころしし東京いまもなほヘリオトロープの花よりくらき

 しかし、いまや地方と都市との境が急速になくなって、田舎もすっかり都市的な場所になっているのに気づく。緑、すなわち山林や農地は多いが、そんなものの意味や価値は生活の場において著しく小さくなってしまい、都市に在るのとあまり変わらぬルールで田舎びとは生活している。今世紀に入ってからひしひしと感じるのだが、「都市」に近づいた(富や知においてはそうではない)「地方」においても、人は「ころされる」ようになってしまっている。
 滝本賢太郎は「まひる野」三月号の「疎外と倦怠あるいは犯罪」でこんなことを指摘する。

 都市生活者を別の言葉で言えば大衆である。都市生活という渦の中、顔も名前もない、入れ替え可能な文字通りの「人材」である。そこに人間疎外を見るのは正しいが、都市とはそもそも疎外の上の永遠の膨張を宿命づけられている。

 都市ははじめから人間が疎外される空間であったということだ。それでも都市は人を引きつける。人は集まりつづける。「人材」として、都市のシステムの一部になって。「材」以外の部分はバグとして排除される。BUGの原義が虫なのを思い出す。人間の中の生き物の部分が排除されること、それが都市を思うときに満ちてくるさびしさの正体なのだろうか。きっとそうだろう。しかし、それだけではない気がする。
「都市」を思うときの、さびしいヴィジョンにいつも重なる歌がある。

  通過電車の窓のはやさに人格のながれ溶けあう長き窓見ゆ
           内山晶太『窓、その他』
  夜の窓にすきとおる胸を沿線の白き枯生がながれていたり

 都市はやはりこんなふうにしんと冷えるようにさびしいところだったのだ。電車の内側に立つ歌もまたさびしい。歌集題名の『窓、その他』。なぜ「窓」なのか。さびしさの正体を求めて、「窓」について考えてみる。
 パンデミックの下に延々と続く「自粛」を通してふと気づいたことがある。地方の過疎地では、いくらでも身体的距離を取っていられて、人恋しい性格でなければ、いわゆる「密」を避けるのはたやすい。都市に住む知人にこのようなメールを送ったことがある。
 こちらでは五キロくらい歩き回っても誰にも会わない日がありますが、大都市では、膨大な数の人びとが、壁や天井とかの建材で縦横に仕切られて生活していて、仕切りの外に出たとたん「密」になってしまうので大変ですね、お気をつけください。
 今日(こんにち)、地方と大都市との明確な相違といえば、やはり密と疎だろう。都市の住居やオフィスは経木で整然と仕切られた菓子箱で、雑踏はその箱や仕切りが取り払われた状態。菓子たちはどうしようもなくざらざらと触れあい混じり合ってしまう。都市はそこに蝟集する人たちが菓子箱の仕切りのような壁や床によって目的別に細かく仕切られている場所なのだ。
 窓はその壁に穿たれた穴だ。隔壁があるから窓がある。都市は平面に収まりきれない膨大な数の人間のいる場所。その人間たちを立体的に積み上げ、細かく仕切って収納し、整理整頓する無数の壁のある場所。そしてその壁に穿たれた無数の窓のある場所だ。
 窓という語は上古から近世の和歌に散見するが、近代短歌からは都市化に伴ってその数が急に多くなる。窓ガラスの普及と正岡子規の病床の歌との関係はよく知られている。近代から現代の窓は、透きとおっていて内と外が互いに見えてしまうところが肝要なのだ。(外からは見えないミラータイプのものもあるが。)
 都市の窓は隔壁の一部が透明化したものと見ることもできる。都市では人は稠密なのに隔てられている。隔てられているが、その向こうを見ることはできる。見ることはできるが、そこにいるのは関わりの薄い知らない人たちだ。知り合ったり語り合ったりするよすがもない。それを見つめているのが、日々「材」として疎外され続ける「われ」だとしたら、これはさびしい。
 都市のさびしさの正体とは、人間疎外と、人間が稠密なのに(稠密であるからこそ)、隔てられ、見えているのに遠い、というところにあるのではないか。
 さびしさについて『窓、その他』を読んでみる。労働の歌を読むと「人材」の「材」になった人びとの、柔らかい生き物の部分が傷んでゆくのが見えるようだ。

 「疲れた」で検索をするGoogleの画面がかえす白きひかりに
  船橋に目を見て渡して無視さるるティッシュ配りの人の目を見き
  労働の夢より覚めし早(つと)朝(めて)の疲れの対価はるかなりしを

 窓の中で働く人の見るものは、この世ならぬ場所のようにしんしんとさびしい。

  列車よりみゆる民家の窓、他者の食卓はいたく澄みとおりたり
  籠りいし一日つかのま窓により光に過ぎぬものばかり見つ
  かなしめる昨日もなかば透きとおり一万枚の窓、われに見ゆ
  いちにちにひとつの窓を嵌めてゆく 生をとぼしき労働として

 人体にも眼という窓がある。眼に深く意識がそそがれる。

  眠たさは眼が渋くなることであり午後の日差しの中の純白
  冬の夜のネオンまぶしく眼球は水面のようにひびくかすかに
  目に蓋のある人体のかなしさを乗せしみじみと終電車ゆく
  一日中眼を開けながら仕事してつめたいパンの袋をひらく
  閉ざしたる窓、閉ざしたるまぶたよりなみだ零れつ手品のごとく


 この、涙を流す眼であり、窓であるものには、心象などということばでは説明できないような不思議なリアリティがある。VRを見ているようだ。

  ドーナツの穴の向こうに見えているモルタルの壁はなみだあふれつ

 涙のような染みのある壁。あるいは漏水かもしれぬ。現実はあまり重要ではない。壁もまたさびしく泣く。穴のこちらにも涙が溢れているのかもしれない。

  同棲の窓を知らぬをかすみそうあふれたりその窓を思えば
  昼といえどうすぐらき部屋のひとところ泉に出遭うごとき窓あり


 これらの窓は清らかに美しく、さびしくはない。「かすみそう」や「泉」のせいだ。これは都市にとっては無用のもの、バグだ。しかし、それがあるから人は生きられる。それだけではない、コントロールできないものとして排除さるべき第一義の虫たちがしたたかに都市空間に侵入しているさまを内山は歌う。

  いっぴきの蛾の全力であらわれてお寿司のうえをはばたき渡る

 情景はよく分かる。が、肝要なのはそこではない。蛾の「全力」に気づく眼差しだ。「お寿司のうえをはばたき渡る」という空しきことに最大出力で命を費やす蛾。バグにほかならぬ。食卓へ闖入してお寿司を台無しにする蛾は、都市とか文明とかのコントロールの外にある野生。勝手に全力でやってきて勝手に死ぬ。これが自然だ。虫(バグ)の存在に気づき、その生死を詠むことは、都市への小さな異議申し立てなのかもしれない。

  空間に手を触れながら春を待つちいさな虫の飛んでいる部屋
  なきがらの虫は地面に落ちていてひとつひとつが夭折なりき
  かなぶんの骸の虚を覗きこむまぶしき朱夏の日々のなごりに

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