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新進特集 「わたしの郷土・わたしの街」 作品&エッセイ③

池田郁里

三重県生まれ。二十代前半まで三重県の北勢地方で過ごし、転職を機に上京。都内で四年ほど暮らし、結婚を機に埼玉県さいたま市に転居。三歳と六歳の母。鉄道会社勤務。

点と点

雛鳥に与えるようにせわしなくキウイを掬い押し込んでいる
おしごとにいかないでよと足首にしがみつかれて床に寝転ぶ
圧縮をされたるようにホームから車両の中へと押し込まれゆく
点と点つなげるための罫線となりてたたずむ南改札
昼過ぎて子を追いかけし公園の桜のつぼみふんわりひらく
とくとくと胸の鼓動のひびきたる仮眠室にて息を吐き出す
選ぶより選ばれている心地するぎっちり並ぶ和洋酒売り場
ひらがなを覚えはじめた娘より茹だる湯船で受けたる講義
喘鳴のつづく娘を膝にのせ打つキーボード微かに重し
みの虫のようにくるまり眠る児の小さき胸に耳をあてがう 

大西民子の描いた景色

 休みの日に子どもを連れて大宮図書館に行く。移転から今年で開館五年を迎える大宮図書館は氷川参道沿いにあり、外観も内装も整っており、過ごしやすい。文学資料コーナーにはさいたま市に縁のある作家が特集され、「大西民子」もその一人である。図書館のサイトにはデジタル文学館として民子の貴重な資料が公開されている。
 大西民子は岩手県の出身で、奈良女子高等師範学校時代に前川佐美雄と出会い、卒業後は釜石市の教員となった。二十五歳の時に夫と大宮市(現在のさいたま市大宮区)に移り住み、埼玉県文化会館の職員となった。夫の帰らぬ日々が続く中、民子は木俣修の下で作歌活動を続けた。その後、岩槻にある浄国寺の宿坊にて母と妹と三人暮らしを始めるが、三十六歳の時に母が他界し、四十歳の時に協議離婚が成立する。そして、四十八歳の時に妹が急逝したことで天涯孤独となる。以来、六九歳でこの世を去るまで、民子は現在のさいたま市内に暮らしていた。
 随筆集には大宮や浦和など、民子の暮らしの行動範囲を窺い知れる文章がいくつかある。

  現在、第五歌集と随筆集を同時に出す計画で準備を進めているが、大宮駅の雑踏や、芝川の流れや、まだ残っている雑木林や坂道、それらが私の歌の素材であり、文学の土壌であることを改めて考えさせられている。
「埼玉の文学巡り 公民館文学講座」昭和四十九年十月


 第五歌集は『雲の地図』であり、妹が急逝した後の歌集である。民子は日々の暮らしを素材と捉えていた。生活の動線上で出会う発見に、機微や幻想を交えて昇華させている。不思議なことに、訪れた場所や故郷などの地名を詠んだ歌に比べて、埼玉県に縁のある地名を詠んだ歌は少ない。

  闇と闇をつなぎてひらく門ありき寂しみて夜の大橋渡る 『不文の掟』
  いくたびも地図をひろげて確かむる川にはさまれてわれの住む町 『花溢れゐき』


 場所を示す際は、「川」「橋」「広場」「駅」などを用いている。固有名詞に頼ることなく素材を観察し、削ぎ落としていった結果だろう。随筆集に様々な地名が出てくることを踏まえると、敢えて選ばなかったのかもしれない。そのため、民子が自解しているものを除き、詠まれた場所は分からない。目立つのはこの一首くらいである。

 石仏の膝に小石の積まれゐて陽あたる坂は古利根の土手 『不文の掟』

 古利根の土手とあるのは古利根川のことだろう。古利根川は埼玉県東部に流れる一級河川であり、利根川の分流である。膝に石を積めるほど立体的な造りの座像だったのだろうか。陽の当たる坂に見えたものは川の土手だった、という目線の動きと石仏の立体感が出て興味深い。
 ただし、この歌も川という広い範囲を詠んだものであり、具体的な場所はわからない。民子の思い描いた心象風景を紐解くことが面白い。

 池の面に白鳥下りて浮ぶ日よ別れむと決めし安らぎに居り 『まぼろしの椅子』

 三月の下旬に大宮公園で花見をした際、この歌を思い出した。大宮公園には民子の勤めていた埼玉県文化会館(現在は歴史と民俗の博物館)があり、園内には広大な舟遊池が作られている。この歌の中で白鳥は群れなのか一羽なのか言及はされていないが、「別れむと決めし安らぎに居り」という下の句から、別離したと連想できる。何らかの理由で群れから外れてしまった白鳥が一羽、池に浮かんでいる。民子は勤めながら、時折この舟遊池を眺めていたのだろう。北に帰ることのできない白鳥が一羽で生きる姿と自分を重ねて、共感と安堵をしたのかもしれない。民子の歌は一首一首が独立しており、完成している。連作ではないため、前後の歌から読み解くことは難しい。幻とも現実とも分からぬ、民子の描いた景色を探すように街を歩く。民子はこの橋を詠んだのだろうか、などと考えるのがとても楽しい。

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