見出し画像

時評2023年4月号

受け継ぐこと

 
 春先は神経を消耗する。数年前の二月、どうにも憂鬱で睡眠薬を肴に酒を飲んでいた。眠気が来ないので量を徐々に増やしたのだと思う。気がつくと所属していた結社の代表に連絡を入れ、退会を申し出ていた。やめたくなった理由は覚えていない。だがその時の感情の強さだけはよく覚えている。二月三月はこの手の憂鬱がしきりに訪れる。

 退会後、別の結社の歌会に遊びにゆき、二次会の席だったか友人たちと話していた折り、結社や欄の歌風に話題が及んだ。今思えば遠回しの勧誘だったのかもしれない。まひる野に入った後、なぜ歌風の合わないところへゆくのかと問われた。彼らにまひる野の歌風は生活実感と映っていた。これは間違ってはいないが、何も語っていないに等しい。

 湯澤規子『「おふくろの味」幻想』は、おふくろの味という六〇年代に生まれた概念の変遷を解く労作だ。当初この言葉は、地方から都市に出た若者たちのいこいの場、信濃屋や近江屋といった郷土料理を食わせる大衆食堂で使われていた。それが残すべき郷土料理となり、女性が家族に作る家庭料理の一ジャンルとなり、時代と共に変容する。
 湯澤が特に着目するのは八〇年代以降の状況である。この時代は家族のために作る料理から、自分のために作る料理へとコペルニクス的転回をさらりとなしとげた小林カツ代から始まる。ここから料理研究家は、おふくろの味を守り保つのではなく、乱反射する幻想を逆手に取って、新たな認識や世界観を語るようになる。

 結社の歌風、もっと言えば伝統もこんな感じではないか。例を挙げればアララギである。彼らは子規の写生概念を継承しつつも、変容させている。写生論は確かに、茂吉の実相観入によって理論上の完成をいちおうは見せる。だが茂吉の論は子規のとは大分異なるし、その茂吉を継ぐ佐太郎が「純粋短歌論」で語るのは、あれだけ茂吉からの影響を言いながら、似て非なる写生観である。だから面白いのだが、写生もおふくろの味も、これらの言葉が色彩を伴って響く空間の外部からすれば、ただありのままに描くことであり、なんとなく懐かしい家庭料理に過ぎない。まひる野も生活実感でしかなくなってしまう。

 わたしは伝統の虚しさや、伝統が作られたものだと言っているのではない。問題はそこではない。伝統とは乱反射しながら受け継がれた幻想の別名かもしれない。だがここには、受け継ぐという営為はたしかに生きており、外部と内部を隔てるのはまさにこの営為に他ならない。

 篠弘『司会者』のあとがきは、末部でまひる野について触れている。岩田正、橋本喜典の名を挙げて「空穂に相通ずるような「われ」とは何かを問いつづける、生身の人間の輝きがあった。そうした飾り気のない閃きを詠んでいきたいものである」。文脈から見れば、結社の歌風の端的な表現と言えそうだ。内部にいるわたしたちは、ここから出発するのかもしれない。あとがきは「亡くなった二人からも、批評をいただきたいと思う」と締められる。受け継ぐとはこういう意識を持ち続けることだと思う。
(滝本賢太郎)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー