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2024年度テーマ評論「時事詠を考える」⑦

 

身体・日常との接点を探る       
広坂早苗


 パソコンのAIアプリに春の短歌を作るよう指示したら、やる気のない生徒の宿題のような桜の歌を作ってきた。よい回答を得るには適切な指示が必要だというので(人間相手も同じことだ)、もっと使い方に習熟すれば、よりよい作品ができるのかもしれない。
 ただ、AIは「私」を持たないから、「私」を歌う短歌を作ることには限界があるだろう(今のところ)。「私」というのは生身の身体を持つ存在である。「頭で考える」「心で感じる」という言い方があるが、世界を認識するには、実は身体が不可欠であるらしい。人工知能研究者の松田雄馬によると、AIに椅子という概念を認識させるのはなかなか難しいことなのだそうだ。「四つの脚と座部と背もたれがある」などの形状を教えようとすると必ず例外が生じるし、「必ずしも四脚でなくてよい」とすると椅子でないものまで椅子に含まれ、収拾が付かなくなる。これに対し、人間は身体を使って考察するのだという。自分の身体が「疲れたときに座る」「作業をするときに座る」目的に適うものを椅子と判断するらしいのだ(『人工知能はなぜ椅子に座れないのか』)。
 今井むつみ・秋田喜美の共著『言語の本質』で紹介されている認知科学者のスティーブン・ハルナッドは、記号の意味を記号のみによって記述しつくすことは不可能で、言語という記号体系が意味を持つためには、基本的な一群の言葉の意味はどこかで感覚と「接地」していなければならない、と指摘する。つまり、身体がなく感覚につながることのないAIは、どんなに大量の言い換えができても、意味を理解することはできないというのだ(ただし、AIに感覚情報を取得させる研究は、現在も盛んに行われているという)。
 ChatGPTなどのAIアプリは、たとえ身体がなくとも、普通の人間より遙かに大量の知識を蓄え、知識を使って説明を行い、問題を解決できる。翻訳アプリを挙げるまでもなく、その言語能力は桁外れである。ただ、「身体」で感じたり把握したりすることがない段階では、創造的な言語活動は難しいのかもしれない。
 こんなことを延々と書いたのは、身体に「接地」しないということが、時事を知る際に、私たちの認識しないところで起きているのではないかと思うからである。例えば、ドローンが撮影した遠隔地の戦闘の映像が、インターネットを使って瞬時に伝えられ、私たちは今当地で起こっていることの一端を知る。そして胸を痛めたり、義憤を感じたりする。けれどこのような情報は、身体に「接地」していないAIアプリの知識に似て、わかったようでわかっていないものである可能性が高い。血や煙のにおいもなければ熱さも湿度も
ない情報では、いくら想像力で補っても実際の状況の理解に遠く及ばないだろうし、その情報が偽物でないという保証もないのだ。
 とはいえ、だから報道に頼って時事の歌を作るのは危険だとか、現地へ足を運べとか、そんなことを言うつもりはない。ただ、自分がその問題にどのように「接地」しているか、つまり自分が五感を通じて触れているのはその問題のどの点なのか、どこまでなのか、ということについては、多少自覚的になった方がいいと思う。 
 
 言葉から言葉つむがずテーブルにアボカドの種芽吹くのを待つ
    俵万智『アボカドの種』

 俵万智の第七歌集から引いた。あとがきに、この一首に添えて次のような一節がある。
 
(前略)陶芸家・富本憲吉の「模様より模様を造るべからず」という言葉を思い出した。すでにある模様を利用して次の模様を造るのではなく、一回一回、富本は自分の目で自然を観察して模様を生んだ。歌の言葉も、そうありたいと思う。一首一首、自分の目で世界を見るところから、歌を生む。言葉から言葉をつむぐだけなら、たとえばAIにだってできるだろう。心から言葉をつむぐとき、歌は命を持つのだと感じる。
 
 「自分の目で世界を見る」というのは、その世界に「接地」することと同義だろう。それにより「心から言葉をつむぐ」ことが可能になるのだと思うが、どのようにしてそれを実現するかは難しいところである。その俵の歌を、同じ歌集からもう一首挙げる。

 ウクライナ今日は曇りというように戦況を聞く霜月の朝

ロシアによるウクライナ侵攻は長期化し、今や膠着状態である。日本にいる「私」は特に気にもしなくなり、今日の天気でも聞くようにニュースで戦況を聞いている。そんな自分に気づいた一瞬のかすかな罪悪感を捉えた歌である。表現はさりげないが、一首は、「私」のうしろめたさを余韻として、軍事侵攻の長期化、人々の関心の薄れ、厳しい寒さに向かう現地の気象などを浮かび上がらせる。これは日常の歌であると同時に時事の歌であり、戦況に無関心になっている自分への気づきが、この時事的な問題と作者を有機的につないでいる。「晴れ」や「雪」でなく「曇り」となっているのも、「私」の関心の薄れの表現と読むべきなのであろう。
 
  二〇二二年二月末。英語の授業。
 侵攻のはじまる朝を待っていていきいきとニュースの解説をした
                 大松達知『ばんじろう』

 爆撃を教材にしてもやもやと国土のようにチャーシューはあり

 大松の第六歌集から引いた。一首目はウクライナ侵攻が始まった時の歌である。まさか、と思っていたことが現実となった驚きは記憶に新しいが、この歌の「私」は英語教師としてこの日を心待ちにし、英字新聞を準備して意気揚々と生徒に解説したのだ。この時の「私」にあったのは、興奮と、生きた教材を与えられる英語教師としての喜びである。遠国で起こった軍事侵攻は、犠牲者を思うより強く、「私」に喜びを与えた。それを不謹慎と言っても意味がない。この歌はその瞬間の真実を歌い、それゆえ訴求力をもつからだ。
 しかし、別に、この「私」がウクライナ侵攻を喜んでいるわけではない。二首目は、それを教材にして興奮していた自分を「もやもやと」した気分で振り返っている。言うまでもなく、この歌では(今から征服する)国土に見立てられたチャーシュー麵のチャーシューが、ややユーモラスに、ウクライナ問題と作者を結びつけている。
 同じ歌集から、時事的な要素を持つ他の歌を挙げてみたい。

 十一時間労働、二時間半宴(うたげ) 〈パパ・飲み会〉とカレンダーにあ   
 り

 
 この歌は、〈パパ・飲み会〉と娘に書き込みされた可笑しさとそこはかとない哀感が主題だろう。飲み会の四倍以上の時間を働いているのに、〈パパ・お仕事〉とは書かれないところが残念で苦笑してしまうのだが、一方で初句の「十一時間労働」が気になる。
 労働基準法による所定労働時間(いわゆる定時)は一日八時間、週四十時間。それをはるかに超えて働く日常がそっと提示されている。近年教員の長時間労働が問題になっており、掲出歌を読むと「私」の職場も事情は似たようなものかと思われるのだが、正面切ってそれを言わず、〈パパ・飲み会〉を端緒として労働問題にさりげなく触れているところが、時事の歌としても優れているのではないかと思う。
 同じ歌集からもう一首、学校の歌を挙げる。

 五年後に廃棄されゆくやすらぎの、ずんずん褒める指導要録

 指導要録は生徒関係の最重要書類で、耐火金庫に保管する。中身は二種類あって、学籍の記録が二十年保存、指導の記録が五年保存であるから、掲出歌は指導の記録の方を指しているだろう。
 指導の記録には学業や人物の評価を記す欄があり、昔はストレートに書いたものだが、昨今は開示請求に備え、マイナス評価は一切書かない。どんな生徒であれ「ずんずん褒める」のだ。時間の無駄とも思えるが、五年後に消えてなくなるならまあいいや、となる。
 学校に物申す保護者が増え、生徒が教育サービスの消費者(お客様)化して久しい。その現状が教師から矜持や気骨を奪っている面は必ずやあると思うが、「指導要録」というレアな取っ掛かりからそんな教育現場を想起させるこの歌は、時事の歌としても興味深い。
 
 遁世を願ひしことの傲岸よ身を削ぐまでに手を洗ひをり
                   内藤明『三年有半』

 タイトルの通り、コロナ下の三年半の作品を収めた内藤の第七歌集から引いた。第四句「身を削ぐまでに」が巧いと思う。この下の句のように、心理的な圧迫のもと、皆で執拗に手を洗い続けた時期があった(今もよく洗う)。手を洗うのはウイルス感染を恐れるからで、生への執着をあからさまに示す行為である。そう気づいたとき、この歌の「私」は、遁世を願っていた自分が実際にはそんな覚悟にほど遠かったことを思い知り、ショックを受けたのだ。
 コロナ禍のスケッチのような作品をずいぶん多く見たが、「身を削ぐまでに」手を洗う行為から自己の生の在り方を振り返るこの歌は、含蓄のある時事の歌となっているのではないか。
 
 自分の身体を取り巻く日々の仕事や暮らしの中に「接地」している時事を歌うとき、力を持った一首になるのではないかと思う。