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聾学校と特別支援教育の境界線に迫る

聾学校について、色々と執筆していることは多いがここでいう教員の成長を支える構造というものは非常に難しいものである。ある先生の原稿から一部、引用する。

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「教員の資質と二つの知の関係」(上図)の矢印に従って、専門性について説明します。【技術知】が一つの引き金となって授業が展開され(①)、その結果として授業中に起きた多様な経験が【実践知】として蓄えられていきます。(②)。蓄えられた実践知は技術知を刺激して質量ともに向上させ(③)、それが使命感・責任感・教育的愛情という部分に作用します(④、⑤)。刺激によって新たにされた資質が技術知を磨いていく(⑥)、という循環が行われると考えています。この循環が授業のたびに幾度も幾度も繰り返されていく中で、授業を行う教員の専門性としての実践知が磨かれていくわけです。授業のたびに繰り返していくことにより、とりわけ失敗例を重ねることによってノウハウや繋がり、授業力がスパイラルアップしていくという関係性です。つまり、実践知は技術知によって強化されるし、技術知も実践知によって磨かれるという関係にあります。そして、技術知と実践知は、基本的な資質に働きかけて熟達化する作用をしているものです。    (『聴覚障害:ー聴覚障害教育の専門性を知る第24回ー』佐藤忠道先生の講演記録より一部引用したもの)

 ここにある太字で“授業のたびに幾度も繰り返されてていく中で専門性としての実践知が磨かれていく”という話は、すごく大事なことだと私は共感する。しかしながら現状として、《パワハラ》の背景にこのような機会は全く整えていなかったと訴えておきたい。むしろ自分自身で技術知を蓄えるだけで、一方的に授業機会を提供しない強い差別的な扱いとして低く人事評価も適切でなかった環境のために私が望む職場の在り方とは、かけ離れている現状を管理職は隠し通しており、またそのことを知らない教育委員会も耳を傾けず、管理職の判断を適切なものと受け止めて真摯に現場を見ない評価として判断したことが本当の事実である。

 強いていえば、タイトル通りに「特別支援教育の境界線」に触れていくと、こんな記述がある。新学習指導要領で見ていきたい。詳細は新学習指導要領概説に記述しているが長文になるため、改訂のポイントより引用する。

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 ここで挙げている部分【社会に開かれた教育課程の実現】、【主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善】の2点においては聾学校現場でいうとどちらにしても手話言語の活用の充実がとても大事な鍵になり、また聴覚活用、人工内耳といった聴覚に関わるコミュニケーション手段の選択について今後、求められるところではあるが実は教職員の専門知識がまだまだ不十分な課題が多く残されている。研修の充実と謳っているが、実際は研修の在り方に問題があるゆえに目標や評価基準が正確ではないため、偏った学習を身につけることが多く教職員間の一定の情報共有ができていない。ろう当事者団体の声がまだ国に届いていないところも多く、北海道でも十分にろう当事者の声が反映されていない現状であり、はっきりいって卒業生のコミュニティーでは良くない声もあるといい、教育業界全体で見ると高評価をするものではないということを知っていただきたい。

またもう一つ、課題として乳幼児の教育支援について現在、厚労省・文科省で進められている「難聴児の早期発見・早期療育推進のための基本方針作成に関する検討会」があるのをご存じでしょうか。筆者は、第1回の内容から見るとちょっと残念に不安を抱えている問題点があった。それは何か。以下の通り。

「難聴は早期に発見され、支援が行われた場合には、より有効に音声言語の発達を促すことが可能になる」と議論の中で、趣旨として大まかな方向性の多くがこう述べられていることがわかった。具体的にいうと、2019年3月26日に行われた第1回プロジェクト会合の記録によると、ある耳鼻科医が早期の人工内耳埋め込みを主張している。「聾で生まれても、聞こえて話せる時代になった。高性能な補聴器や人工内耳という機器で、音声言語獲得ができるようになったのだから、わざわざそれらの機器を使わないで手話を選択する理由はない」こと。きこえない子に「音声言語を獲得させ、通常学校での学習・生活を可能とさせる」ことが目標だと主張している。また引き続き、第2回目の会合では、東京のろう学校校長らが「専門性のある教員の配置、国の加配の充実、外部専門家である言語聴覚士の配置」を要望しましたが、手話の大切さについては十分に触れていなかったし、第3回目の会合では言語聴覚士協会から言語聴覚士の特別支援学校での職域の拡大を要望しましたが手話についての言及はなかった。これにより、方向性としてはこのようにまとめられていることがわかっている。(第4回まとめ報告より)
1、補聴器や人工内耳を装用してからの切れ目のない支援 
 2、ろう学校における乳幼児教育相談の充実
3、音声言語の発達の促進やその他のコミュニケーション手段の早期獲得

というまとめを見るとつまり問題点とは何か。暗に手話にも触れており、要するに手話は単なる「その他のコミュニケーション手段」であるんだという捉え方をしている。これは間違いだ!!コミュニケーション手段でははなく“言語”そのものであるんだということが当事者の声であり、残念ながらろう当事者団体から委員に入っていないために声が届けられていないのです。そしてまた別途、問題としているのが上記のプロジェクトとは別に、自民党の国会議員有志で自民党「難聴対策議員連盟」が2019年4月に発足したのをご存知でしょうか。その経緯の中で2019年12月に一度だけ全日本ろうあ連盟が聾当事者の代表としてヒアリングに呼ばれ“JapanHearingVision”~ライフサイクルに応じた難聴者(児)支援を実現するために~をまとめたことを報告し、訴えていた。しかし、翌年(2020年)には難聴対策議員連盟小委員会が発足し、聾当事者は呼ばれることはなく、実施された5回のヒアリング中4回が人工内耳のことについてであることが全日本ろうあ連盟のある情報筋から聞き、とても危機感を抱えているものなんだということがわかった。

つまり政府そのものの方向性が障害者権利条約で示している「当事者を抜きにして勝手に決めないで」のスローガンを理解していながらも実際は、手話を使う私たち当事者の生の切実な声は届いていない現状である。かつての口話法一辺倒のろう教育のように、きこえる人たちの価値観だけが多数派であることに変わりなく、きこえない子どもたちの未来が決められてしまう!そのような危機感が見えないところで動いているということが表には気付かない本当の裏であり、表裏一体そのものの現場をまだまだ知らない人が多いのである。

 これを私は強く遺憾に抱えると共にある動きがあることを情報提供する。ろう教育の未来を考える会がこのような呼びかけが拡散されている。

<趣旨>
「みんなちがって、みんないい」―結婚、性、働き方、障害・・・現代はそれぞれのあり方を認める「多様性の時代」へと舵を切りつつあります。聴覚障害においてもそれは同様です。
聴力が重度でもきこえないままに生きていくことを選択する親子もいますし、聴力が軽くとも手話から学び始める親子もいます。人工内耳と手話を駆使して聾者と聴者の二つの世界に生きる子もいます。
手話を通じて乳幼児期に育まれた自己肯定感や親との愛着関係を土台に、ろう学校という「見てわかる」環境の中で、子どもたちはのびのびと学び、人と関わる力、日本語力、深く考える力を身につけていきます。こうした環境の中でしっかりと学力をつけ大学に進学する子どもたちも少なくありません。
多様な学び方・生き方を認めるという視点から、私たちは、今、厚生労働省の『難聴児の早期発見・早期療育推進のための基本方針作成に関する検討会』に重大な関心を寄せています。そして、私たちは、聴覚障害をもつ子どもたちの多様なあり方が確実に保障されるために、具体的に以下のことを強く要望致します。
<要望事項>
1.新生児聴覚スクリーニング検査によってリファー(要再検査)となった赤ちゃんの保護者に対する相談支援の充実および難聴確定診断後の保護者に対して、手話や口話を含む幅広い選択肢の中から自ら決定できるよう、中立的かつ網羅的な情報提供が行える体制の整備を要望します。
2.手話での支援を望んでも支援ができる療育・教育機関が不在の地域もあります。地域で手話での支援が受けられるよう環境の整備を要望します。
3.ろう学校の乳幼児教育相談は、多様な難聴乳幼児の支援を人的保障のない中で担ってきました。乳幼児教育相談担当教員の正式加配、担当教員の手話研修や専門性向上のための研修機会の保障、ロールモデルとしての聴覚障害教員・講師等による保護者支援の拡充、個々のニーズに応じた家庭訪問支援の実施などろう学校乳幼児教育相談の充実を要望します。
4.手話への理解や基礎的な手話技能を習得するために、大学や言語聴覚士養成校のカリキュラムの中に手話関連の講座を開設することを要望します。
ろう教育の未来を考える会
代表 野﨑 誠、関係者一同

 このような動きに私は大変共感するとともに一緒に賛同の気持ちで、ぜひ切実な声を知って頂けなければならない。北海道のろう教育も間違っている方向に少なからず、乳幼児支援の在り方の中で誤った情報が存在していることを気付かなければならない。多様な手段そのものを一つの選択肢として重要なのはわかるが、最終的に社会で生きるのはきこえない子どもの意思なのです。そのきこえない子どもが大きくなったときに壁にぶつかることの現実は何にも変わりません。いや変わる必要があるのは、ろう学校そのものの教育に問題点が残っているからなのです。これを無責任かつ、真摯に耳を傾け舵を取ろうとしない。きこえる人の考え方では人工内耳の児童生徒が増えていく。手話言語をあまり“言語”として認識していない教育環境そのものを推進しているのです。

これがタイトルの通り、「聾学校と特別支援教育の境界線に迫る」このことの趣旨なのである。特別支援教育は良い方向に向かっているとはいえず、教員の専門性の低下するような多忙さに追われていることが前述の内容であって、そしてろう学校としての存在感を失っているように児童生徒の減少は教育環境に問題があるのです。これを警鐘しておかなければ、ろう学校は廃校。子どもたちの生き生きとした学びが実現しないと社会に遅れた人間が増えていくのは避けたい。

本来望めるのは、耳がきこえなくても出来ることはたくさんある。きこえる人と同じ生き生きとのばして社会の中で活躍できる人間としての生き方が当たり前になってくれる社会、架け橋になる当たり前の世界に私たちが作っていける真の社会参加が実現できることである。

引用先:ろう教育の未来を考える会HP(https://sites.google.com/view/the-future-of-deaf-education/)

要望書の賛同してくれる方は、こちら。【手話も日本語も!難聴児の早期支援に公正中立な情報提供と選択権を!