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歴史を学ぶにあたって-後編‐

先日の投稿「歴史を学ぶにあたって-前編-」に続く、後編は古代の最初に触れる内容からどのようにして教材研究を進めていき、指導する上で大事なことを理解するのか。ということを自分なりにまとめている。

 これはあくまで大学の履修を通して作成したレポート内容であるので、一部はろう学校の中で教えることは難しい面がある。しかし、きちんとした客観的事実や論理整合性という部分においてしっかり色々な情報を調べて一つの道筋を作っておくことはこれからの学び「歴史総合」「公共」でも同じになる。世界史と関連付けた授業づくりが今後の課題である。

テーマ②「卑弥呼について述べなさい。」

 卑弥呼について、私が学んだ第一印象は、耶馬台国の事実的リーダーとして存在している人物というイメージだった。しかし、今回の受講で探究して理解するとそのイメージは誤りであることを学んだ。        
 まず、卑弥呼は『リーダー的存在というのはなくて、あくまで耶馬台国にいたためにリーダーになっただけ。まとまる存在として知れていたという説がある』と(堀川、2020)は述べている。「魏志倭人伝」において中国からみる日本を倭国と呼んでいた。そして、耶馬台国の女王として卑弥呼という記述部分があることが把握されている。そこの文章から、卑弥呼の一般的なイメージはこう読んでいた。中学社会、高校歴史の教科書の多くは、このように簡単な解釈でまとまれていることがある。
 当時の倭国には100程のクニが出現し、戦乱という争いが続いていたのちに30ほどのクニが連合になり支配者を立てるようになったその中心が耶馬台国であると言われている。そして王は男だったかそれをやめた後、混乱状態をまとめるようになったのは女王である卑弥呼だったという話がある。
しかし、歴史学を探究することでわかることは卑弥呼は、シャーマンとしての宗教的存在であり見えない王としての性格をもつという二面性があったという。事実的には存在していなく、裏で象徴ということにおいて有力者が動くような形態を敷いていたのではないかということがわかってくる。その有力者に複数のポストを用意して政権に当たらせるようになり、耶馬台国は大きく移動していくようになったというのが理解し、当初のイメージを変える大きな学びを得ることができた。

 テーマ②では、私のように学んでいる生徒の多くは、「卑弥呼」のことを女性のリーダーとして指導していたというイメージを抱えているだろう。でも実はそうではない。リーダーとして指導しているという事実は全くない。もしかしたら・・・という詳説の話であって、男性なのか。そして名前だけの存在であって実は他の人が事実的に指導していたのではないか。ということをきちんと客観的な事実などの情報を挙げることで、歴史そのものを一緒に学ぶところではないかという点で挙げていることを述べている。「卑弥呼」だけではなく、歴史上に有名な人物の多くは、真実とは違う諸説も多様に混乱しているということが多いので、教科書では一部の話であることを踏まえておく必要がある。

テーマ③「推古朝の政治について、対外関係を踏まえて述べなさい。」

 推古朝といえば、有名なのは聖徳太子という人物が行った政治であるといわれている。この当時の日本の政治というのは外交から強い影響を受けていた背景があった。その一つとして遣隋使がある。遣隋使は二度行われており、この二度を通して日本の政治のあり方が大きく影響を受けて変わっていたという解釈を学ぶことになる。日本(当時、倭国)では隋との関係が強く関与されており、それらを軸として遣隋使が持ち帰った知識を生かして文明化が進められていた。聖徳太子はこの持ち帰った知識から、憲法十七条の制定や冠位十二階の実施を行うことで、混乱ないように世の中をまとめる大きな存在となっていた。というのが、教科書どおりの解釈になっているが今回の受講で気付いたことは、本当に聖徳太子が作られたのかということが不明であることである。『本当に法的有効性を持っていたのか、情報伝達の状況が不明であり、どこまで広がっていたのか。史料などからは確認できず、イデオロギーであることも一つの考えであるのではないか。』と(堀川、2020)は述べている。
 史料から探究することはとても大事であり、「後漢書」によると昔から倭国と新羅は仲が悪かったため、新羅が倭国に攻め入るようになると、倭国は百済と仲良いため、味方に引き入れたいという優位性があって百済との関係を親密に行っていたという説がある。これは東アジア社会の中でのパワーバランスという芽生えが出ていることで、第2次遣隋使に派遣した小野妹子らは隋から仏法と礼儀を学ぶことを目的に国際レベルにおける倭国の文明化を目指すと同時に高句麗と手を結ぶのを牽制し、外交関係を保つための交流を受け入れるようにしていったということがわかる。
 このようにして推古朝の政治は、対外関係の影響が強い政治となっていることが理解できるということは歴史学の本質として、興味深く考えさせることができた。

 テーマ③ついては、世界史と関連づけした興味深い教材観の1つである。日本の政治というのは実にいうと単独で作られ始めたのではなく、海外からの参考にすることが当たり前になっているんだという。そのため、アジア諸国に視点を広げてより知識を学び得ることが必要であると考える。

 先日の投稿した「古代で関心あること」、「中世で関心あること」にはこのような学びを意識した上でまとめた一つの内容である。読んでいない方はそちらもぜひ。一旦、お休みに入るが今年は近世、近代を履修する予定なので秋には新しい内容を書いて投稿出来たらと思う。