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勉強とは、本質を考えることー前編ー

私がこうして欲しい学校の教育というのは、今の時代に必要な形だと思う。これをリアルに表現して実現する学校というのはまだまだ少ないし、私立では出来るところが多い。でも公立学校というのは、文部科学省の決められている学習指導要領だったり、教育委員会の指示でやらなきゃいけない制限だったりして根本的な教員としてのやりがいが本当に子どもたちのためになっているだろうか。という疑問視は積み重なるほど、矛盾ばかりだ。

 若い教員は知らないうちに上司、先輩教員から指導を受けるわけで褒めれば、ある先輩教員は指導実績を基に昇任への評価や管理職への推薦だったり、ある教員は担任や校務の主任だったり管理職から人事指令で指導より運営が増えてしまうように偏るなど。つまり教員という仕事は、教科指導が正しい評価ではなく、校務処理を含めての評価がどれだけあるかで差が分かれるのだ。だから私のように<パワハラ>を認めようとせずに適切な指導と煽って否定する管理職や周りの無意識な環境が生まれる。教育委員会も現場をきちんと耳傾けない合理的配慮違反の姿勢もあったため、事実上、若い教員を大事に教えて守るという世間からのイメージは正解ではないということをここに綴じておく。私だけではなく、知人を含む何人かが被害を受けていることの話を最近、耳に入ったり新聞などで報道していること見るし、最近騒動になったTwitterでの教師のバトンも声を挙げている現役教員がたくさんいることが分かった。

 でも結局は文科省も教育委員会も全く真摯に向き合わないことが現状であり、全然理解していないかのように別のことをどんどんやっていくという。GIGAスクール構想だったり、部活動指導員や学習支援員による公務の軽減だったり、働き方改革というやり方では正直言って一人の教職員における根本的な問題は改善出来ず、新たな精神的な苦労と時間を強いられるだろう。評価方法も全然良くならない。むしろ管理職の怠慢で、事実上若い教員の心は届かないままになる運命は環境次第だ。

では子供たちのためにどんな教員であるべきだろうか。私は、現役時代に仕事している時、常に心掛けていたこと。校務分掌などは、出来るだけ決められた時間にやる。それ以外は、朝から生徒が帰る時間までは全て生徒と向き合うことに集中すれば良い。つまり、部活動だけではなく登下校、部活動の居残りや始まる前、また朝練などにも精力的に参加することで自分の仕事などは後回しにした。こうすることで同じ障がいを持つ生徒たちの小さな気づきやコミュニティーそのものを理解して社会人の経験を少しずつ振ってきたことの自信はあるといっていい。

 でも残念ながら管理職は授業機会を与えずにいたことで自分の努力を全く知らずのような情報把握で、デタラメな評価の発言で侮辱行為を受けたことを今も恨みは抱えるし、この評価が周りに悪意のように周りへ浸透している。きこえる世界はそのようなことだと知ったとき、人間不信な私である。非常に残念だ。一方で残念ながら卒業生のほとんどは、逆にきこえる教職員の評価があまり良くないことの話を聴くことが多くなった。結果として何が正解なのか。それは子どもたちが社会に出て分かることが、どれだけ重要なことを学べるきっかけは何だったのか。=本質を考えることということである。

 教科書に書いていることを教えるだけで、一般的に見る肯定的な評価ではない。実際、社会に出れば通用するというのは3割だ。7割は仕事次第で全く使わないこともある。多くは社会経験として新しいことを学ぶためにここでは、人間としての社会人基礎力がどれだけあるか。ということがポイントなのだ。つまり、生きる力で主体的に考え、調べ、伝える力である。授業機会を与えないで、他の仕事を管理職から押し付けられてきた私でも授業時間が重要ではないと分かった上で、他の時間にかけてきたことは無駄ではないと思うだけに悔しい気持ちがある。でもこれだけははっきり言えるのだ。

これをきこえない障がい者視線で学ぶという経験が、残念ながら今の聾学校現場には多く教えていない。きこえる教職員のほとんどはぶっちゃけて出来ていないのだ。言語理解も不足だし、その上でろうコミュニティーを知らないためにあるある世話話も分からないから、指導するなんで難しい専門性が山積みなのだ。そこを自覚しない限り、本質を考えることの教職員がしっかりと聾学校としての仕事を実践しているかはまだまだこの先の永遠の課題だろう。

 そこで卒業生の多くは社会人になったあと、大学でさまざまな人間関係を通して気付くことあったり、あるいは協会活動やスポーツ仲間などの先輩方との交流を通して気付かない多くのことを学び、聾学校以上に沢山の学びを得ながら成長していく。実に聾学校で学んで行く間に出来ることが多ければ、もっと違った道が開けたり人生がもっと豊かになっている可能性はあった。タイミングが遅いかもしれないという現状で、新しく頑張るところがきこえる人よりハンデを背負っている実態である。だから私は、卒業生のそれぞれの努力次第を讃えたい。

あなたは、『本質を考えること』とは何か。と聞かれたら?

というタイトルの趣旨に戻るが、勉強をしていく上でただ暗記して沢山の教養を覚えればいい生活って本当に意味あるのか?最初に疑問を持ちませんか?きこえる世界もきこえない世界も同じ共通点がある、とても重要な疑問である。
<本質>という中身は色々な解釈があるわけだが、ここでいう本質を考えることを意識しないと指導する姿勢そのものがもしかしたら間違いではないか。と気付くことがあった方がいい。と私は願い、今回は自分の経験を書いた。

と一旦、疑問をやり投げる形でまずは考える機会にして欲しい。後編に続く。