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心にしみる静かな盆踊り「八尾風の盆」 越中の山里に、三味線と胡弓の哀調の音色が響く

 「八尾の町では、どこにいてもこの雪流しの音が耳に入って来る。坂の町であるばかりでなく、八尾は水音の町なのだ」といった書き出しで始まる高橋治さんの『風の盆恋歌』(1987年、新潮社)。この一冊の本が、富山の小さな町を全国に知らしめ、年にたった三日間の祭りに、25万人もの人出をもたらすことになったのだ。かく言う私も、2012年までに、風の盆通いは9度目を数えている。10度目を一つの区切りにしようと2020年に予定していたが、新型コロナ感染防止のため中止となり、昨年も開かれなかった。今年は規模を縮小して、3年ぶりに開催が決まった。しかし宿泊先のこともあって見送ることに。私にとって心に刻まれた、この祭りのことを追憶し、旅で磨こう「文化力」 の番外編として、書き記しておこう。

■一冊の小説から観光ブーム巻き起こす

 私がこの町のことを知ったのも、その小説を読んでからだ。当の高橋さんとお会いすることになり、話題作りに目を通しておく必要があったためだ。1991年6月に遡る。当時、私は朝日新聞社の金沢支局長に着任した直後で、高橋さんから支局訪問の要請があった。白山の自然保護について話を聞いてほしいとのことだった。

 高橋さんの著書では、第90回直木賞の『秘伝』(1984年、講談社)だけは読んでいた。長崎県西彼杵半島の西海岸を舞台に、二人の釣り名人と怪魚イシナギの死闘劇の話で骨太な作家とお見受けしていた。ところが一転、『風の盆恋歌』のストーリーは、大人の恋愛を描いていた。

高橋治さんの『風の盆恋歌』と『秘伝』

 小説のあらましこそ男と女の不倫物語だったが、それは舞台回しに過ぎない。作家は八尾の町を、風の盆を、そして何より町衆が支える祭り「おわら」を書きたかったのであろう。「おわら」は盆踊りでありながら静かで心にしみる祭りなのだ。読み進めると、一度も訪れたことのない町と祭りの情景が脳裏に浮かんできた。

「おわら風の盆」の町、富山・八尾の風景

 それもそのはず高橋さんは、千葉県に生まれだが、昭和22年から4年間、金沢の旧制四高に通い、青春時代に八尾を知った。東大卒業後、映画会社の松竹に入り小津安二郎のもとで長く働いた後に執筆活動に入ることになる。八尾は何度となく訪ね、ずっと温めていたテーマであったのだ。映像を手がけているだけに、臨場感のある文章表現が納得できた。

八尾の町の裏通り

 「正直言って、おわらに惚れました。八尾には病みつきになるものを持っていますよ。並みの盆踊りなんかじゃ決してありません」。高橋さんの言葉を待つまでもなく「9月には必ず行ってみます」と答えたのをよく覚えている。肝心の自然保護はどんな話をしたのか思い出せない。

 「蚊帳の中から 花を見る 咲いてはかない 酔芙蓉 ……しのび逢う恋 風の盆」。カラオケなどで、よく歌われている「風の盆恋歌」の歌詞だ。もちろん高橋さんの小説をもとに、なかにし礼さんが1989年に作詞し大ヒットした。さらにテレビ番組や新派の舞台に波及し、その相乗効果で八尾は、時ならぬ観光ブームを巻き起こすことになった。

■踊り手は、なまめかしい浴衣に編み笠

 風の盆は曜日に関係なく二百十日の9月1日から3日まで開かれる。待ちかねた私にとって初めての八尾詣では、1991年の9月1日深夜だった。行き付けのスナックのマスターの知人が運転する車で乗り入れた。

 車を降りると、ただならぬ雰囲気だ。夜中だというのに多くの人が行き交う。そして遠くから路地を抜けて聞こえてくる三味線の音。さらに胡弓の哀調の音色が風のように流れ耳にまとわりついてくる。そこは紛れもなく「おわら風の盆」の町だった。

夜の町流し(『定本 風の盆おわら案内記』より)
昼のおんな踊りの列(『定本 風の盆おはら案内記』より)

 次第に音が高まった下新町の八幡社の境内では舞台踊りの最中だった。女性はそろいのなまめかしい浴衣に編み笠。帯が一様に黒で引き締まった感じがした。男性は軽妙で粋な股引と法被姿で、やはり編み笠だ。踊り手の後方では唄い手と三味線に胡弓、時折り太鼓が加わる。

八幡社境内の舞台踊り(1991年9月1日)

 甲高い唄い出しの音律が流れると、観客は舞台に集中する。文中の正調「越中おわら」などは、『定本 風の盆おわら案内記』(2004年、言叢社)からの引用。

(唄われョー わしゃ囃す)
見たさ逢いたさ 思いがつのる
(キタサノサー ドッコイサノーサ)
恋の八尾は オワラ 雪の中 [詩 小川千甕]

『定本 風の盆おわら案内記』より
八幡社境内の舞台踊り(1991年9月1日)

 正調「越中おわら」には恋の唄が多い。囃しをはさみながら本歌七七七にオワラの言葉を入れ五文字で締める。

八幡社境内の舞台踊り(1991年9月1日)

 五七五の俳句や七七を加えた短歌とは違い七七七五は狸謡(後の都都逸)で、この二六文字は他の民謡と変わらず、オワラの挿入も数あるが、胡弓で唄う「おわら」は情趣を添える。もう一つ、正調の本歌だけを紹介する。

唄のまちだよ 八尾の町は
  唄で糸とる オワラ  桑も摘む [詩 中山輝]

『定本 風の盆おわら案内記』より
八幡社境内の舞台踊り(1991年9月1日)

 独特の節回しで歌詞が十分に聞きとれないが、音と踊りが相俟って幻想的な風情を醸し出す。その後、町流しの踊りの列について歩く。ご祝儀のかかる軒先で披露踊りは、男女の微妙な振りの違いもあって格別だった。越中の山里に育まれ根付いてきた風流の極致だ。

にぎわう境内の夜店(1991年9月1日)
町流し(1991年9月1日)

■農作業の所作を振付けた男踊りも格別

 八尾の余韻がなお色濃く残る9月末、知人を通じある観月の会の誘いを受けた。高橋さんが塾長を務める白山麓僻村塾の催しだった。僻村塾は、高橋さんが私財を投じ遊月山荘を建て、「自然を守り、地域文化の担い手としての人材の育成」を最大の目標とした生涯教育の場だった。

 観月の催しに、うれしいことに八尾から男踊りの名手が招かれていた。薄明かりの中哀調を帯びたおわら節の唄と三味線、胡弓に合わせ踊る姿に魅せられ酔った。男踊りは農作業の所作を振付けたそうだ。

 仕事の始まりを告げる呼び出しの手叩きから始まり、草を掻き分け、苗を植え、田や畑にある石を投げ、鍬を打ち、稲刈り、一日の仕事を終え天に合掌する仕草が振付けられている、中でも両手を水平に伸ばし案山子が傾いていく姿と、そこから身を変化する時に足を地面に強く踏む動きは凛々しい。素朴で直線的な踊りは「風の盆の粋」とも言える。

 翌年3月初旬にシーズンオフの八尾に出向いた。祭りの熱気のない、いわば化粧を施さないスッピンの町を見たかったからだ。JR富山駅から高山線に乗って、四つ目に八尾駅があった。殺風景な変哲もない田舎町の駅頭だった。町なかまでは約30分ほど歩かなければならなかった。まだ道端に雪が残る坂町を上っていく。振り向くと町の北側を流れる神通川の支流の井田川が帯のように見える。

古い家並みの八尾(1992年3月)

 高橋さんの小説に書かれた坂の町が納得できた。夜目にはのぞめなかった崖の斜面がよく展望できた。崖の斜面に連なる家々の屋根が美しい。そして繰り返し丁寧に描かれている水音が聞こえる。町並みの軒下に「エンナカ」と呼ばれる側溝を雪解け水が流れていく。風の盆には灯が点るぼんぼりもない通りだが、格子戸の古い町並みが続く。

坂の町の八尾

 前年に町流しを見た諏訪町の通りは1986年に「日本の道百選」に選ばれて以来、無電柱化と石畳化が行われ、一層整備された。さらに住民も呼応し、家構えを町並みに合わせ、景観の保全に努めているという。

 その諏訪町の一角に風庵という板看板のかかる蕎麦屋に入った。「手打ちにされても八尾のそばだよ、ちょっとやそっとじゃなかなか切れない」と「おわら」の一節にも唄われた八尾そばを賞味した。強いコシとのど越しの良さが気に入った。こうした老舗の味にも伝統の町の素顔が見て取れた。

■長い歳月をかけ現在の「洗練された芸」に

 八尾は1532年、飛騨の聞名寺がこの地に坊を移してから、その門前町として開けたそうだ。「おわら風の盆」の歴史を調べてみた。確たる発祥の由来は不明だ。『越中婦負郡志』によれば、1702年、加賀藩から下された「町建御墨付文書」を、町衆が町の開祖所有から取り戻したことに喜び、三日三晩踊り明かしたことに由来すると記されている。

 やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂と豊作を願う「風の盆」と称する祭りに変化したそうだ。その後、大正ロマンといわれた頃から昭和にかけて、唄や踊りの改良がなされた。とりわけ1929年に「越中民謡おわら保存会」が結成された。初代会長の川崎順二さんが文化サロン活動をして、各界の文化人を招き新風を吹き込んだのだった。
 

 八尾坂道 わかれて来れば
 露か時雨か オワラ はらはらと [詩 小杉放庵]
 
 おらがおわらは 山川育ち
 唄に踊りに オワラ 神ごころ [詩 白鳥省吾]

『定本 風の盆おわら案内記』より

 八尾を訪ねた文化人たちは数多くの「新作おわら」を残した。そして現在に伝わる、おわら節を洗練させたのは浄瑠璃を本格的に修行した名手、江尻豊治さんだ。今や三味線と並んで欠かせない胡弓が取り入れられたのは、比較的新しく明治時代末期のことで、輪島塗りの旅職人であった松本勘玄さんが始めたとされている。いずれも故人となっているが、「おわら風の盆」の恩人たちだ。

三味線の音色を響かせながら流す町衆(1993年9月1日)

 おわらの魅力は長い歳月をかけ「洗練された芸」の融合にある。哀愁を帯びた音曲に合わせ、のびやかに唄い、しなやかに踊る「風の盆」は、元来静かな祭りだ。徳島の阿波踊りとは対極にある。四国生まれの私にとって、なぜか「おわら風の盆」の八尾は格別の町になった。

仕草の美しい踊り(1993年9月1日)

 2度目の風の盆は金沢から、3度目以降は大阪から出向いた。「おわら」は旧町など11の支部がそれぞれ自主的に運営している。支部ごとに浴衣や法被の衣装が違っており、微妙な特色もある。何度通っても味わい深い。ある時は友人を誘い輪踊りを体験したこともあった。

 高橋さんの小説が発表されてから年々、客が増えているのが実感された。1997年から4年間は、海外での仕事で行けなかった。この間、2000年には30万人のピークに達している。高橋さんは『[定本]風の盆』(言叢社)に寄せたエッセイで「増やした元凶はお前だから27万人連れて帰れという人さえある」と告白している。

 上新町の大輪踊りを見た。ここでは見物客も一緒になって踊りの輪に入り心ゆくまで「おわら」を体感できる。

観光客も踊りの輪に(1993年9月1日)

 この上新町の「おわら」を運営する自治協議会会長の小谷治義さんに、今後の課題を伺った。「一にも二にも若い後継者が不足していることです。踊りは小学校の課外活動に、母親らが教えに行っとります。救いは山間部との学校統合で、町周辺の子供たちも加わっていることです」と話していた。

上新町大輪踊り(1992年9月2日)
上新町の通り(1992年9月2日)

■祭りの原点は町衆たちの心意気の継承

 8度目の八尾は2005年9月2日、初めて車中泊のバス旅だった。観光ツアーの実態を知るのも一興だと思った。JTB仕立てのバスは乗客46人の満席だ。難波を午前11時半に出発し、一路北陸路へ。一行は金沢のパーキングエリアで早い夕食を摂り、午後6時半には現地に入った。午後11時半まで自由時間だ。

 東町にさしかかった所で、民家の玄関いっぱいに履物が脱がれてあった。踊りの人たちが休憩でもしているのかと思っていると、入り口にいた人が「入ってもいいですよ」と声をかけてくれた。

 そこでは座敷踊りが繰り広げられていた。ある会社が酒席に呼び、貸し切りで楽しんでいるのだ。

民家のなかでも繰り広げられる東町の座敷踊り(2005年9月2日)

 好意に甘えて腰を落ち着けた。こまやかな手と足の運びが絶妙だ。男女一組の踊りを蛍光灯の下でじっくり堪能できた。こんな飛び入りで見ることができるのだから、八尾通いはやめられそうにないと思った。

ゆっくり間近で楽しめる座敷踊り(2005年9月2日)

 2012年は金沢に宿を取って知人の車で出向いたが、交通規制で、車は町外れの駐車場に誘導された。そこから町なかまで歩いて小一時間もかかり、目的地に着くまでに疲れ果てた。バスは町近くの町民広場で降ろしてくれ効率的だったが、マイカーは遠くに駐車する。全国各地からバスが着き、続々と観光客が降り立った。

 30年前、誰がこんな混雑を予想したであろうか。とはいえ後日の新聞報道によると、この年の人出は21万人だった。近年は減る傾向にあるのも事実のようだ。もともと観光目当てではなかった八尾の原点を考える時期でもある。

 秋の気配はあるものの人込みの中を歩くと汗が吹き出してきた。9度目の風の盆は一人で楽しむ「おわら」なので、下新町の舞台を見ようと陣取った。最初の「おわら」の時と同じ場所だ。

下新町の舞台踊り(2012年9月1日)

 せっかちな観光客は単調な踊りが20分も続くと立ち去っていく。実は「おわら」は30分過ぎてからが本番だ。男踊りや女踊りがあり、その奥行きの深さが味わえるのだ。

男踊りの名手も登場(2012年9月1日)
町なかでは趣味の店も(2012年9月1日)

 舞台踊りの後は、町流しだ。かつてはそこここで流しの踊り手に出会ったのが、あまり通りに人が多いと踊れないということで、最近では見かけなくなった。そうした中、今町や西町で見ることができた。

今町の流し(2012年9月1日)
今町の流し(2012年9月1日)

 「おわら風の盆」は、八尾に暮らす人々が大切に守り育んできた町民の生命ともいうべき祭りだ。遠くで働いている者も、町へ戻ってくる。たった三日間だけの興奮のために、一年を通して稽古を積む。そして親から子へ伝統の「芸」は引き継がれてきた。八尾の民衆の精紳は決して観光客のために踊っているわけではない。

ふるさと切手 「おわら風の盆」(1997年発行)

 今年の「おわら風の盆」は11町の踊り手や地方衆の競演ステージと、各町で8月20日から11日間行われる前夜祭を取りやめ、規模を縮小して開催するという。やがてコロナ禍が終息するであろう。あの町衆たちの心意気に触れられる10度目の「おわら風の盆」は、来年以降に持ち越した。

ふるさと切手 「おわら風の盆」(2004年発行)

 私の脳裏には2度目の八尾の光景が焼き付いている。帰路、車の中から見た。まもなく夜が明ける頃、5、6人の若者が民家と田んぼの路地を流していた。自分たちだけの年に一度の祭りを祝うかのように。


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