壮絶に生き書き続けた作家の立松和平さん 人と自然を愛し、書くことは心の浄化
日本を代表する行動派作家として円熟期の活動を続けていた立松和平さんが2010年2月8日、62歳で急逝され、はや12年になる。『遠雷』で野間文芸新人賞(1980年)を受賞したのをはじめ、『毒−風聞・田中正造−』で毎日出版文化賞(1997年)、『道元禅師』で泉鏡花文学賞(2007年)を受け、小説のほか紀行文、絵本、戯曲など数多くの作品を遺した。「人はいかに生きるべきか」「自然や社会に対して人はどうあるべきか」を一貫して問い続けた作家だった。
■「いつだって作品の中で生きている」
和平さんが多臓器不全で亡くなったことを知ったのは、能登半島の旅先だった。ふと見た携帯電話のテレビ画面に和平さんが映っていた。それが訃報だったことに驚き、にわかに信じられなかった。その約5ヵ月前に、私の郷里の居酒屋で深夜まで酒を酌み交わしていたのだから……。
そもそもの出会いも能登半島だった。私が朝日新聞金沢支局長だった1992年、過疎化が進んでいた能登半島の石川県門前町で立松さんの講演会を企画した。町の主催ではあったが、全小・中学生に聞いていただくことを条件に新聞社で準備した。テレビ朝日のニューステーション番組で時折り「心と感動の旅」を現地レポートしていて、その言葉の内容と朴訥とした独特の語り口調に魅かれていたからだ。前夜、宿を共にし、町職員らと深夜まで語り合い、風呂で背中を流し合った思い出もよぎる。
和平さんは知床の山里に、地元の有志らと造ったお堂があり、毎年法要を営んでいた。15周年を迎えた節目の例祭に「一度、来ませんか」との誘いがあった。世界自然遺産に登録された知床の自然にも関心があり、2009年6月に、知床に出向いた。知床には奥さんら家族も来られていて、懇談した時の和平さんの穏やかな表情がよみがえる。 大阪に戻って、奥さんの横松美千繒さんに、「限りなく無念です。お別れ会には、ぜひ参列させていただきます」と、弔いのテレックスを送った.
立松和平(本名:横松和夫)さんを偲ぶ会が2010年3月27日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。私も駆けつけ、62歳で燃え尽きた和平さんの功績や人柄を偲んだ。交流のあった幅広い関係者や作家仲間も多数参列していて、その存在の大きさに悲しみを深めた。
大導師は法華宗の日照山法昌寺住職の福島泰樹さんが務めた。和平さんが学生時代から親交のあった福島さんは読経を唱えた後、和平さんの作家人生を総括し「優しい眼差しで時代の業苦を生き、人間の心の闇と光を書き続けた作家立松和平の旅は終わらない」と功績を称え、別れを惜しんだ。
続いて、偲ぶ会実行委員会代表の北方謙三さんが、遺影に向かって弔辞を読み上げた。「別れの言葉は言わない。君が残した作品があるからだ。本を開けば、ただ君はもう、新作を書くことがない。それが悲しい」と語りかけ、「君の残した作品は、時代の中でどう読み継がれていくのだろうか。それを見届けるのが僕の友人としての責任だろう」と結んだ。
さらに作家の三田誠広さん、辻井喬さん、映画監督の高橋伴明さんらが別れの言葉を述べた。こうした有名人の弔辞が続いた中、和平さんの知床での同志である佐野博さんが「知床に立松さんが根付かせた例祭とお堂がある限り、後世に繋いでいきます」と、涙ながらに語っていたのが印象的だった。
遺族を代表して長男の林心平さんが「300冊あまりの著作を残し、これからも40冊近くの本を出さなければなりません。今後も立松の作品をよろしくお願いします」と謝辞を述べた。
祭壇には、白ユリで覆われた立松さんの遺影が飾られていた。いつに無くネクタイ姿の和平さんの笑顔が弾けていて、逝去してしまったという実感がわいてこなかった。葬儀所前の広い庭には、時間が経過しても長蛇の列ができ、ファンら一般参列者を含め約1000人が焼香し、冥福を祈った。
斎場玄関前の廊下には、100冊近くの著書が並べられていた。私も書棚に30数冊を所持しているが、いかに多くの作品を遺してきたかを再認識した次第だ。和平さんは亡くなったけれど、作品を通して私たちの心の中に生き続けていくことを深く心に刻み、斎場を後にしたのだった。壮絶に生き急ぎ、書き急いだ和平さんのすさまじい執筆は、決して書斎なんかで、生まれたものではなかった。日本だけでなく南極まで駆け巡り、行く先々の地域に溶け込み、土地の人たちとどんな夢を紡いできたのか、その姿を知床に見た。
■和平さんの愛した知床は自然の大地
和平さんがこよなく愛した知床との「絆」や、遺された言葉や文章を通し、和平さんの心の風景を探ってみよう。
2009年夏、初めて知床を訪ねた。知床と言えば、手つかずの自然美が残り、2005年7月に世界自然遺産に登録されている。それゆえ環境保全と観光開発の矛盾する課題に直面していた。和平さんはこの地を定点観測するように、20数年前から繰り返し訪れ、第2の故郷となっていた。
旅の目的は知床の観光ではなく、和平さんが勧進の法要参列と、前日に開かれる「知床世界自然遺産フォーラム」の聴講だった。とはいっても2泊3日の合間を縫って、知床半島にも足を伸ばした。
やはりここは自然にあふれた大地。沿道には野生のシカやキツネを見かけた。国道沿いに日本の滝100選に数えられるオシンコシンの滝がある。途中から流れが2つに分かれていることから「双美の滝」とも呼ばれている。落差が80メートルあり、流量も豊富で、 滝の中ほどの高さまで階段で上がることができ、迫力があった。
さらに車を進めると、知床連山の懐に5つの湖がある。知床五湖は原生林の中にひっそりと存在し静寂そのもの。木造の散策路が設けられ、本来なら順繰りに巡回できるのだが、クマが出没する恐れがあり、最初の二湖だけしか見ることができなかった。知床連山を湖面に映し優美な光景だった。入り口近くにはオホーツク海が望める展望台があり、木造の通路が整備されていた。
冬の知床は雪に閉ざされ、海は流氷に覆い尽くされる。そうした厳しい自然ゆえ知床は特有の海洋および陸上の生態系を保持してきたといえる。流氷は漁師の仕事場を奪うが、閉ざされた海面の下で、魚が産卵する。
森には針葉樹と広葉樹が繁り、その大木にオジロワシやシマフクロウなどの絶滅危惧種の鳥が生息し、様々な海鳥が巣をつくっている。陸にはヒグマやエゾシカ、キタキツネなどの野生生物が暮らし、海にもトドやアザラシ、イルカなどが生息している。
和平さんによると、知床では、冬に流氷が運んでくる多くの植物プランクトンを、春に氷が溶けると小魚が食べ、その小魚も大きな魚や鳥の餌に、そして川を遡上するサケはクマの餌に、といった食物連鎖が繰り返されてきたのだ。そしてこの地に入植した漁師たちもその自然生態系の中で暮らしているのだ。
和平さんは大学生時代に知床に来て、自然いっぱいの秘境を知った。やがてテレビの仕事で何度か取材しているうちに、この地がすっかり気に入り、ログハウスの山荘を買い求めたのだった。
知床の魅力について、和平さんは「知床にはヒグマやオオワシ、トドなどの自然生態系が残っているだけでなく、そこには入植した開拓民が自然と共生し細々と生きているのです。漁師の立場で言えば、クマは人を恐れない。漁師もクマを恐れなくなった。クマはクマを生きている。ヒトもヒトを生きなければいけない、ということです。知床ではこの点に本当の価値があります。人間の生態系があって漁師がそこで生活している点がすばらしいのです」と話していた。
■昔の村に3つのお堂を建て毎年法要
法要が営まれたのは斜里町から知床半島のオホーツクラインを走って約40分、知布泊の林の中だった。ここにはかつて村の学校や神社があったそうだ。知布泊は斜里の街中より運行されていた殖民軌道の終点として駅逓所も設けられ、知床開発の結節点として重要な役割を果たしてきた。やがて殖民軌道は、道路の整備などによりその役目を終えたのだった。
土地の有志が30年前に小中学校跡地を借り受け、大自然の中で語らい憩える場としてログハウスを建てる運動を始めたのだ。平成の「知床知布泊村」の建設だった。その「村長」が佐野さんだ。知布泊村は行政上の自治体ではなく、佐野さんらが自称する小さなコミュニティ「自然村」なのだ。
ここは連合赤軍事件を題材にした和平さん原作の映画「光の雨」(2001年、高橋伴明監督)の撮影が行われたロケ地にもなった。こうした縁で、和平さんも「村民」になった。佐野さんらは、和平さんに神社復興を依頼したのだ。どうしてと問うと、「なんでもやってくれそうだから」の返事。それなら「やるしかない」と答えた、そうだ。
和平さんは友人の福島泰樹住職に相談して、北方の守護神でもある毘沙門天を祀る毘沙門堂を15年前に手造りしたのだった。細部は大工さんに仕上げてもらったが、みんなで板を切り、丸太を運んで建てた。和平さんも金槌を持って屋根に上がり大工仕事をした、という。
毘沙門堂、通称知床毘沙門堂のお堂開きは福島住職を導師として1995年7月に行われた。和平さんがその頃、小僧として毎年お正月に修業していた法隆寺の高田良信管長(現長老)も参列され、その縁がきっかけとなり、毘沙門堂の隣に知床聖徳太子殿が建立された。その後、法隆寺の大野玄妙管長も訪ねるようになり、またまた手造りによって、観音堂を建立し、落慶したのだった。
いまは知床三堂と呼ばれ、毎年例祭が行われるようになった。和平さんは「私たちは自然の流れのうちに観音様を祀っていたことになりますが、決まりなんてありません。その人それぞれに自由な信仰でよいと思っています。夏の良き日に、よき仲間が知床に集まれるのが、何よりの幸せですから」と語っていた。
15周年の法要には、地元の人たちに加え全国各地から約300人が駆けつけた。福島住職をはじめ法隆寺の大野管長や京都仏教会理事長で相国寺派の有馬頼底管長、中宮寺門跡の日野西光尊尼ら僧侶だけでも26人も参列した。
和平さんが法衣を身にまとい勧進の役を担った。「一大行事になり地元の負担を考えると、15周年を機に縮小しなければ」と、和平さんは気をもむが、地元は多くのボランティアで盛り上がっていた。
私たちが到着した前夜には歓迎会が開かれ、海や山の幸のもてなしがあった。また法要の日の午後には、私が出席できなかったが、野外広場で懇親会が盛大に持たれた。これらの受け入れには地元から多くのボランティアが参集していたのだ。
法要の前日には、「知床世界自然遺産フォーラム」が斜里町で開かれた。第1部は観光、農業、漁業関係者や行政の責任者が2時間にわたって、これからの取り組みやあるべき姿について、バトルトークを交わした。第2部は和平さんが司会を務め、世界文化遺産の法隆寺の大野管主や、京都の世界遺産、金閣・銀閣寺を擁する相国寺派の有馬管長らによるパネルディスカッションだ。その中で、自然の生態系や、観光客の急増問題も議論された。
保全か開発か―世界自然遺産に登録され5年目を迎えて、生活者や経済界、行政、識者といったそれぞれの立場から本音の意見が出され、多くの課題が露呈しているのだ。しかしこうした議論を通じ、世界遺産への地域の取り組みの大切さを浮き彫りにしたのではないだろうか。
問題なのは観光客の増加によって、車からの排気ガスが増え、せっかくの遊歩道も踏み荒らされてしまうなど、手つかずだったゆえ守られていた自然環境の悪化など様々な課題に直面している。
和平さんの著した『知床 森と海の祈り』(2006年、春秋社刊)の一節に次のような文章がある。
自然の生態系の上に、人間の生態系がのっている。その上で私たちは生きることができるのである。人間を排除する形で閉鎖された自然など、私たちと無縁である。私たちに本当に必要なのは、麗しくも豊かな生態系の上に生きていることをまず認識し、その自然のありように最大の敬意を払いつつ、学び、生きることではないだろうか。そうして私たちは、その自然と合一することができる。それが人生を生きる究極の目標である。そうなるために私たちは生きているのだ。
■好きな言葉に「流れる水は先を争わず」
私は能登半島の門前で和平さんと知り合って以降、大阪・奈良や東京で交誼を重ねた。2006年に中之島の朝日カルチャーセンターの公開講座で対談し、2009年にも私の郷里・愛媛県の新居浜文化協会創立60周年の記念行事でも講演や私が司会する鼎談などの機会もあった。
和平さんは、法隆寺に続いて、永平寺でも修業した。そして『道元禅師』(2007年、東京書籍)の上下2冊の大作を著し、泉鏡花文学賞と親鸞賞を受賞している。本人も苦しみながら修業のつもりで書いたと言う長編を読んでいると、こちらまで修業僧になった気分になる。
親鸞賞は本願寺文化興隆財団主催の文学賞で、2000年に創設され2年ごとに選考している。その第5回受賞者に和平さんが選ばれた。京都の東本願寺東山浄苑で2008年10月に授賞式が行われ、私も出席した。その夜、祝賀会があり、翌年に郷里で予定されている文化講演会の講演をお願いしたのだった。
講演は私が顧問をしている新居浜文化協会創立60周年の記念事業で、2009年9月に催された。和平さんには「自然との共生 故郷の再生」のテーマで基調講演をいただいた。和平さんに市教育長や文化協会会長も加わり、私が司会をして「絆で築こう故郷の文化力」のフォーラムも催した。
和平さんは、自分の故郷にあった足尾銅山と新居浜の別子銅山を比較した上で、閉山後にいち早く緑に復した別子に比べ、足尾の現状を嘆いた。日光市足尾町で毎年4月に開かれるNPO法人「足尾に緑を育てる会」の植樹デーにも毎回参加するなど、自ら現場に足を運び自然保護や環境保全を訴え続けていた。
和平さんは新居浜での講演時に、別子銅山の産業遺跡を訪ねたいとの要望が出されていた。このため前日に新居浜に入り、坪井利一郎・前市産業遺産活用室室長(当時)のガイドで別子銅山の遺産のある東平地区や銅山記念館などを見学した。表土まで無くなり一面の禿山になった足尾の荒廃した山と違い、別子銅山のあった銅山峰の緑濃い山並みを見て、植林事業に取り組んだ伊庭貞剛ら先人の英断にとても感心されていた。
講演会は午後からだったため、午前中には新居浜の名刹、曹洞宗の瑞応寺に案内した。楢﨑通元住職が直々にお寺の沿革などを説明。日ごろ非公開の県指定文化財に指定されている「大転輪経蔵」も見せていただいた。『道元禅師』を著した作家という事もあり、若いお坊さんから本へのサインを求められ、和平さんも苦笑していた。
自然を愛し、人を愛した和平さんならではの、こんなエピソードもあった。新居浜在住の高校時代の同級生から、ご主人が文芸同人誌『海峡』に発表した作品を出版したいとの意向で、「尊敬する作家の立松先生に序文を書いていただけないでしょうか」との懇願だ。私は和平さんの貴重な時間を必要とするだけに、一旦はお断りしたが、その心情にほだされた。 私も拙著『夢をつむぐ人々』(2002年、東方出版刊)の序文を和平さんにお願いしたことがあった。「本書はたくさんのよき人と会った白鳥正夫さんからの、私たちへのおすそわけだ」との過分な文章をいただいた。
誠実な人柄の和平さんだけに、今回も引き受けていただけるのではと、かすかな望みを抱いていたからだ。ホテルの部屋で、その旨を伝えると、すぐさま「いいですよ。私はあなたからの依頼で断ったことがありますか」と即決。なんと依頼を受けて4日後に、序文「命の軌跡-西山慶尚小論」を届けられたのだ。「帰路の車中と機中で、御作を一気に読み、感銘を受けました。そのため一気に文章を書き上げました」との手紙が添えられていた。
和平さんの序文には「書くということは、過去の命の軌跡をたどることであり、その軌跡を未来へとつないでいくことである」。そして「書くことは、心を浄化する。生きるためには、書かないでいられないのである。書くことによって、命の軌跡はまだまだ先に伸びていく」と、綴られていた。
しかし、この文章を書かれて約5ヵ月後に和平さんは他界されたのだった。西山さんの『知覧』(2010年、文芸社)は、和平さん没後に刊行され、西山さんから奥さんに送られ仏前に報告された、と聞く。なんとも皮肉なことだが、書くものへの遺言のようなメッセージでもあった。
夭折された『立松和平追想集』(2010年)が手元にある。タイトルは「流れる水は先を争わず」。和平さんが好んで色紙に書いた言葉だ。
和平さんは句も詠んだ。私の心に沁みる、こんな句がある。
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