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芸術が花開き魅惑の地を有するスペイン古都の無差別爆撃に抗議し制作したピカソの《ゲルニカ》

 一枚の絵画を見ることを主目的に海外へ出向いて行ったことがある。スペインのマドリードにあるパブロ・ピカソ(1881-1973)の《ゲルニカ》だっ

パブロ・ピカソの大作《ゲルニカ》(1937年)

た。2007年秋のことだ。朝日新聞社では1995年、戦後50年企画の目玉として、実物を借用し日本で展示したいという悲願があり、私も関わった。しかしスペイン政府は門外不出を崩さず、持ち出し許可が得られず、米ポロライド社の特殊撮影での実写による原寸大のレプリカ(複製)を展示した。定年後には現地で本物を見たいとの思いが宿っていた。スペインは豊かな歴史と魅惑の地を有していて、その後、地中海クルーズでバルセロナへ(2015年)、ポルトガルから巡礼の道のサンティアゴ・ デ・コンボステラ(2016年)を訪れている。今回は首都のマドリードとアンダルシアを中心にリポートする。

 現地で《ゲルニカ》を間近にケースなし鑑賞

 まず《ゲルニカ》をめぐっては、「ピカソ 愛と苦悩―《ゲルニカ》への道」展として、複製とともに《ゲルニカ》の制作に至ったピカソの多くの作品を展示した。東京本社で企画したのだが、最初の会場が京都国立近代美術館だったため、大阪企画部に在籍していた私は広報や記念講演会など展覧会の裏方として苦労したのだった。

米ポロライド 社の実写による原寸大レプリカの展示準備作業(1995年、京都国立近代美術館)

 スペイン内戦さなかの1937年4月、フランコ将軍が率いる反乱軍を支援したドイツ・ナチス軍はバスク地方の古都ゲルニカを無差別爆撃した。容赦なく爆弾の雨を降らせ、無防備な多数の市民の命を奪った。

《ゲルニカ》の下絵(スペインで入手した資料より)

 滞在中のパリでこの報を聞いたピカソは、かねて人民戦線政府より依頼されていたパリ万国博覧会スペイン館の壁画として、急きょ「ゲルニカ」を主題にこの作品に取り組んだ。
 死んだわが子を抱いて泣き叫ぶ母親、苦痛に歯をむきだしておののく馬、槍を突き刺されて倒れた兵士……全体を黒と白、灰色という暗い色調で描き、暴力の不条理を暴き、その非道に怒りをぶつけたのだ。全体の構成はキリストの磔刑図をイメージさせる。その構図については、ピカソが好んで描いてきた闘牛ミノタウロスの神話などとの関連も指摘されている。
 スペイン内戦はフランコ将軍の勝利により終結。この絵はロンドンなどを巡回した後にヨーロッパの戦火を避け、1939年、米国に渡りニューヨーク近代美術館に預けられた。第二次世界大戦後もフランコ将軍の政権下にあったスペイン政府はこの絵の返還を求めますが、ピカソは「スペインに自由が戻るまでこの絵を戻すことはない」と拒否した。
 ピカソは1973年に他界し、その2年後にフランコ将軍も没した。政治体制の代わったスペインとニューヨーク近代美術館との間で再び返還交渉が始まり、1981年になって返還されたのだ。
 

《ゲルニカ》展示の ソフィア王妃芸術センター の入口(2007年)

 数奇な運命をたどった《ゲルニカ》は現在、マドリッドソフィア王妃芸術センターに展示されている。私は帰国前日の午後を鑑賞に充てた。なんと土曜日午後2時半からは無料だった。通常なら6ユーロー(約1000円)だ。もし日本での開催なら2000円は取るのではと思われた。しかも午後9時まで開館しているのた。
 縦3.5メートル、横7.8メートルの大作は、ガラスケースに納められることもなく展示されていた。監視員が付き、停止線内に入るとセンサーで警報が鳴ることになっていたが、間近からじっくり細部まで鑑賞することができた。私は他のピカソ作品を見た後、さらに館を出る際にも見納めた。

 

ガウディのもう一つの傑作《グエル公園》

 この旅は、関西空港からルフトハンザドイツ航空でバルセロナに到着した。午前10時40分、大阪を出発して現地着は午後7時20分だった。時差が8

搭乗したルフトハンザドイツ航空

時間、フランクフルト経由で2時間20分ほど乗り継ぎ時間があり、所要時間は約16時間40分要した。機内食も2回配られた。やはり遠い。初日は空港から宿泊ホテルへ直行し、スーツケースも開けず寝るのみだった。
 

搭乗したルフトハンザドイツ航空

 バルセロナはアントニ・ガウディ(1852-1926)の世界遺産が集中している街だ。世紀を超えて未完の傑作サグラダ・ファミリア「聖家族教会」をはじめ、グエル公園やグエル邸、高級アパートのカサ・ミラなどを見て回った。サグラダ・ファミリアは、このサイトの「アート曼荼羅あれこれ」(2024年4月8日)に寄稿しているので割愛する。
 

ガウディが設計した世界遺産のグエル公園の入口
01 ピカソの大作《ゲルニカ》(1937年)

 ただし自由散策のグエル公園には触れておきたい。もともと1900年から1914年にかけて造られたガウディとグエル伯爵が夢みた幻の英国風の庭園式住宅地だ。色とりどりの鮮やかなタイルがはりめぐらされ、その独創的で奇抜なデザインに驚いた。
 

市内の眺めが楽しめるグエル公園のテラス

 公園の中央広場から5分で行けるゴルゴタの丘に登ると、見晴らしがよく、街が一望できる。ガウディは、この頂上に礼拝堂を造る予定だったが、公園が未完成で終わったので、十字架3本しかない。これはレプリカで、ガウディの時代の十字架は、スペイン内戦の時に破壊されてしまったという。現在は、この十字架の場所へは、安全のため上れない。
 

バルセロナのピカソ美術館

 バルセロナでは、ピカソ美術館を訪ね、時間をかけて鑑賞した。家族からの寄贈された多数の油彩や素描をメインに生前の1963年に開館した。とりわけ初期作品の具象画が数多く展示されていて、早熟さに驚く。ピカソは多作で、その時代を映し画題を変化させ、「青の時代」や「バラ色の時代」を経て抽象画に至ったのかを、あらためて軌跡を追うことが出来た。

 

宮殿や大聖堂、モスク、庭園など魅力的な名所

 バルセロナでは、ガウディやピカソの芸術を満喫した一日だった。翌日からはスペイン南部のアンダルシアの観光名所を巡った。半日、バスに揺られローマ時代に起源をもつグラナダへ。イスラム王朝終焉の地であり、異国情緒が漂っていた。
 

広大な敷地に立地する世界遺産のアルハンブラ宮殿
アルハンブラ宮殿の一部外観

 1984年に世界遺産されたアルハンブラ宮殿は、14世紀にイベリア半島最後のイスラム教国・ナスル朝の王ユースフ1世によって、小高い丘陵の上に建設された。まさにアラブ特有の辺地区様式の粋だ。アルハンブラとは「赤い城塞」を意味するアンダルシアの言葉だとされる。
 

美しいアーチ形の柱廊が立ち並ぶアルハンブラ宮殿の内観

 アラヤネスの中庭は、メスアール宮殿・コマレス宮殿・カルロス5世宮殿と奥宮で囲まれている。庭の中央には水が湛えられていて、水辺面に映った建物や回廊などを愛でる造りとなっていて、水鏡の上下対称の美にうっとり。
 

アラヤネスの中庭の水面に映った上下対称の建物

獅子の中庭は、ムハンマド5世による建築。庭の中央には12体のライオン像。回廊には大理石で作られ、その上部を漆喰で装飾した美しいアーチ形の柱廊が立ち並ぶ。
 

12体のライオン像が置かれた獅子の中庭

 アルハンブラ宮殿は城壁に囲まれ、高台の眼下は谷になっている。敷地内には砲台もあり、宮殿が難攻不落の要塞上に建てられているのがよく分かる。宮殿内は整備され、両側に糸杉がそびえる小径も歩いた。
 

城壁に囲まれ、高台の眼下は谷に
敷地内には砲台も備えられている
糸杉がそびえる宮殿内の小径

 グラナダに一泊して、また半日かけてバス旅でセビリアへ。途中、美しい白壁の村ミハスを散策した。海抜420メートルの山麓に位置し、標高は約400メートルの高台からは地中海が一望できた。
 

白壁の村ミハスの遠景
美しい白壁の村ミハスを散策

 セビリアでは、コロンブスの墓もあるセビリアのシンボルでもあるスペイン随一の「セビリア大聖堂」や、イスラム教とキリスト教が融合した高さ93メートルのヒラルダの塔などを眺めた。

セビリアのシンボルでもあるスペイン随一の「セビリア大聖堂」
イスラム教とキリスト教が融合した高さ93メートルのヒラルダの塔


 

フラメンコのディナーショー

 スペインと言えば、闘牛と舞踊フラメンコ。オフシーズンでも楽しめる闘牛の聖地「マエストランサ闘牛場」を見たかったが、素通り。フラメンコの方はディナーショーで楽しめた。

世界最大級のモスク、コルドバのメスキー

 セビリアから歴史と文化が息づくコルドバに出向いた。ここでもイスラム教とキリスト教の建築が混ざり合う世界最大級のモスク、壮大なメスキータや風情あふれる花の小径などの観光スポットを訪れた。

ラ・マンチャ地方の夕陽に照らされた白い風車群

 夕刻迫るバスの車窓から丘の上に夕陽に照らされた白い風車群が見えてきた。16世紀、時のスペイン国王カルロス1世で、かつ神聖ローマ皇帝カール5世が風力を用いて穀物を挽くために、故郷で神聖ローマ帝国の領土であったネーデルランドから導入したものという。荒野に白い風車が並ぶラ・マンチャ地方のメルヘンチックな風景に、しばし時の経つのを忘れた。その夜はマドリード泊り。

穀物を挽くための風車は、現在観光用

 

芸術家輩出のスペイン、不朽の名作《ゲルニカ》

 帰国前日、この旅の目的であった《ゲルニカ》のあるソフィア王妃芸術センターのことは、冒頭に記した。早朝から壮麗な白亜の殿堂・王宮と東側に隣接するオリエンテ広場や、ドン・キホーテの銅像のあるスペイン広場などを駆け足で観光し、お目当てのプラド美術館を訪れた。

王宮の東側に隣接するオリエンテ広場
ドン・キホーテの銅像のあるスペイン広場

 プラド美術館には20分待ちで入場できた。歴代のスペイン王家のコレクションを展示するだけあって、世界五大美術館の一つに数えられている。スペインは古来より優れた建築家、画家、彫刻家、写真家の発祥の地であり、ピカソやガウディの他、名だたる芸術家を輩出している。

プラド美術館は世界五大美術館の一つ

 ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)はじめ、エル・グレコ(1541-1614)、フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)、ジョアン・ミロ (1893–1983) 、サルバドール・ダリ (1904-1989) 、アントニ・タピエス・イ・プイグ(A1923-2012) らの代表作を観るだけでも数時間を要した。

長蛇の列が続くプラド美 術館

 中でもピカソは 20 世紀の美術をリードし続けた天才だ。日本では毎年のようにピカソ展が絵画だけでなく写真や陶芸などをテーマに開催され、私はも展覧会場に足を運んでいる。多作だっただけに展覧会の切り口は様々だ。しかしどんな作品より、《ゲルニカ》には人間の愛や絶望などの要素が集約されていて印象深い。現役時代の仕事柄、膨大な美術作品を見てきたが、私にとっての一枚の名画は、迷うことなく《ゲルニカ》だ。
 スペインのゲルニカで起こった戦争の悲劇は、21世紀になっても、ウクライナや中東で引き起こされ、多くの民衆が犠牲になっている。《ゲルニカ》は美しい作品ではないが、「美術の力」を感じさせる。地上のあらゆる戦争に対して永遠の抗議を示す記念碑的な作品といえる。

 

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