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『西遊記』研究の第一人者、中野美代子さん 妖怪とたわむれ、孫悟空を蘇らせた“女傑”

60歳代の中野美代子さん

 短いようで長い人生、見知らね人との出会いは不思議だ。本来なら接点がない人と偶然か、必然か交差する。そして人生の一時期、懇親を重ねることになる。そうした不思議な出会いの一人に、北海道大学名誉教授で、中国文学者の中野美代子さんがいる。中野さんは、孫悟空が活躍する西遊記研究の第一人者だ。1997年6月、前年に北海道大学教授を定年後、札幌に在住していた中野さんに初めてお会いした。私が朝日新聞社で企画した創刊120周年記念特別展「西遊記のシルクロード 三蔵法師の道」の監修者の一人として加わっていただくためで、必然の出会いと言える。暗中模索の状況だっただけに、何がなんでも口説き落とすつもりでいたが、「案ずるよりも易し」で、初めから承諾の意向だったようだ。次々と著書を発表するかたわら、「男よりも学問」とばかり独身を貫き、大酒飲みの中野さんは、“女傑”だった。 

■「西遊記の世界」の展覧会構成などに尽力

 中野さんは1933年、札幌に生まれ北大を卒業後、助手となり、一時オーストラリア国立大学の助手を経て、再び北大に復帰し文学部助教授、言語文化部教授の道をたどった。その後、北大名誉教授などという仰々しい肩書を持つが、初めて会った時からすっかり打ち解けた。肩書に似合わぬ小柄で庶民的な風貌をしていた。言葉を飾らぬ素朴な人柄だが、西遊記の話となると、さすがに立て板に水といった具合。次々と展示アイデアが飛び出してきた。

 翌日には詳しい資料が速達で郵送されてきたが、その手書きの字のきれいなこと。まるで活版の字を思わせた。さらに驚かされたのは図解付きだ。後で分かったのだが、高校時代に絵画部に所属し、絵の巧みさは同僚も舌を巻くほどの腕前だったとか。作品リスト案には、西天取経の絵画図「玉肌夫人」や「刻官板全像西遊記」、敦煌・楡林窟の壁画模写などが、その内容も含め分かりやすく説明してあった。

速達で郵送されてきた図解付き資料

 また中野さんは、泉州開元寺西塔第四層の「唐三蔵」と「梁武帝」の浮彫写真、「孫悟空」や「猴行者」の浮彫拓本などを所持しており、表装し直せば展示できるという。孫悟空のモデルともされるインドの叙事詩に見えるサルの英雄ハヌマーンの拓本、文献の類いに至るまで列記されており、一気に展覧会構成の「西遊記の世界」が広がったのだった。 

「孫悟空」の浮彫
「猴行者」の浮彫拓本

 私は喉の渇いた砂漠で水にありつけた心境だった。悟空の神通力が効いたのか、と思いきや中野さんは後日、初対面の私を「ガキ大将がそのままオトナになったようだ」と前置き、私の夢と熱意に好感をもったそうだ。「紳士ぶったやつ、えらい学者ぶったやつ……には、現役の大学教師のころから、あきあきしていた。私はかつてワルガキだったので、ワルガキどうしの信頼感とでもいったものに、すなおに反応できたのである」と、印象を語っている。

 さらにこんな言葉も。「さいわいに定年退官後はいやなオジサンたちとのおつきあいの義務もない、当世の若ものふうにいえば、フリーターの身分であった」と。「朝日の創刊事業なら、きちんとした展覧会になるのでは」「ほかならぬ三蔵法師がテーマだけに、私にとって面白からぬはずはない」と、こちらの心配をよそに、初めから承諾するつもりだったという。

 中野さんは展覧会の出品リスト作成に始まって、大阪での企画会議への出席、図録への執筆、講演会への出演と多忙をきわめた。女孫悟空とも思える活躍ぶりだったが、一方でとても茶目っ気がある。

 展覧会の準備のさなか、「敦煌からこんな絵が新たに発見されました。展示しましょう」と、ファクスを送ってきた。そこには見事なトラとハクチョウのイラストが書かれてあった。ハクチョウは私の名の白鳥をもじっていたのだ。

トラとハクチョウのイラスト

 さらに出品された「馬を伴う玄奘取経図(模写)」や、「虎を伴う行脚僧図」をもじったイラストの第二、第三報も届けられた。

出品された「馬を伴う玄奘取経図(模写)」
「馬を伴う玄奘取経図」をもじったイラスト
出品された「虎を伴う行脚僧図」
「虎を伴う行脚僧図」をもじったイラスト

 特別展は、史実としての『大唐西域記』の足跡を基に、沿線の仏教遺跡の発掘物のほか、伝説化した『西遊記』の世界にかかわる出品にいたる、きわめてユニークな展覧会となった。もちろん中野さん提供の資料のほか、夏目雅子が三蔵法師役を演じた人気テレビドラマ「西遊記」(1978~79年放映)の映像、文楽人形などで「『西遊記』の世界」の展示コーナーが出現した。

「『西遊記』の世界」の展示コーナー
人気テレビドラマ「西遊記」(1978~79年放映)の映像も

 展覧会終了後、中野さんは「『西遊記』が生まれたのは、三蔵法師・玄奘没後九百年も後。テレビやマンガ、アニメなど様々な大衆文化に取り入れられたが、その経過を図像的な展示品で跡づけられたことに大きな意義があった」と、締めくくられてていた。

 「三蔵法師展」山口県立美術館講演会後の懇親会

 その後、私の著作『夢しごと 三蔵法師を伝えて』への序文要請にも応じていただいたが、その文面で「サンザンこき使われた」と愚痴をちらり。「サンザン」は「三蔵」の中国音でもあることにひっかけていた。はては拙著の出版パーティーにも、はるばる札幌から大阪にかけつけ「無茶苦茶な注文にこたえてきた被害者だった」と、本音を暴露した。開宴中はグラスを片手にヤジを発し続けていた。しかし私には、慈愛に満ちた中野さんの心情がよく理解でき、愛する孫悟空に免じて、私の人づかいの荒さが許されたと受け取れた。

『夢しごと 三蔵法師を伝えて』の出版パーティーで挨拶する中野美代子さん(2000年)
出版パーティーで参加者らと記念撮影の中野美代子さん(2000年)
中野美代子さん宿泊の大阪のホテルロビーで(2000年)

■20年がかり、『西遊記』十巻を全訳の偉業

 中野美代子さんといえば、まず岩波文庫の『西遊記』の翻訳の業績があげられよう。小野忍・東大教授が三巻を出して1980年に急逝した。その3年後に後任訳者として中野さんが決まった。中野さんは「途方もない重荷であった。自分なりに立てていた仕事も大幅に見直さねばならなかった」と述懐する。さらに「天命はだれにもわからないが、訳了まで死んではならない」と決意したという。『西遊記』の中で、地獄に行って自分の名前を寿命簿から消してしまった孫悟空の心境だったようだ。

 そして1986年に四巻目を刊行してから12年、98年4月に十巻目を完訳した。小野氏が一巻を出してから21年になる大仕事だった。三蔵法師が7世紀に中国の長安を出発しインドの天竺まで3万キロの求法の旅に要した歳月は17年だった。中野さんの仕事は、いかに途方もないことであったかが裏付けられる。

 16世紀末の明代に成立した『西遊記』になぜ魅せられたのか。「はちゃめちゃ、荒唐無稽、奇想天外な話の裏側に、綿密な計算と見事な論理構造がある」ことに着目したからだ。中野訳の魅力はくだけた解釈だ。漢文調の各章のタイトルと文中の詩を口語調に改め、小野訳を読みやすくした。「翻訳は最終的には日本語との勝負」と割り切っているが、言辞に尽くせぬ困難を伴ったことだろう。

 中野さんの訳例を紹介しよう。「おれさまを知らんのか。おれさまはな、かの唐僧の一番弟子たる孫悟空行者だぞ。おれさまのおとうとぶんの沙(悟浄)和尚が、おまえの洞窟のなかにいるんだ。そいつを放したら、おまえのガキどもを返してやるさ…」(第4巻・第31回「猪八戒 義もて猴王を煽ること 孫行者 智もて妖怪を降すこと」)といった具合だ。

 翻訳はさながら三蔵法師の西天取経の旅だった。「最終巻を出したら私も天竺に行こう」と励みにしていたそうだが、その前年にインドに行く機会に恵まれた。しかし中野さんにとっては長い翻訳の仕事を終えた時こそが、「われ天竺に到達せり」との心境だったのではなかろう。そんな見出しの訳了余話を書きとどめている。

 中野さんの“女傑”たるゆえんは、小野氏の訳した『西遊記』の一~三巻を翻訳し直しすことにあった。三蔵法師が苦難の長旅から帰国して後、さらに18年もかけて千三百三十五巻もの経典を翻訳した忍耐強さを彷彿とさせる。この長丁場の岩波書店の編集担当者は3人目だ。石川憲子さんは期待を込めてこう話していた。

 「八巻目のゲラを引き継いでから先生の担当になりました。九巻目まで2年余りかかりましたが、十巻目は5カ月足らずで刊行できました。先生はワープロを使わず手書きでしたが、活版刷りのような丁寧な字で、校正も楽でした。でも一冊分は200字の用紙で20センチもの高さになります。愛読者から中野訳で読みたい。私の生きている間にお願いします、といった便りが寄せられます」

 そして2005年3月、ついに中野訳『西遊記』全十巻を完結したのだ。私の書棚に小野氏訳を含む十巻セットの箱が置かれていたが、中野さんの一~三巻が加わった。その年の7月、札幌を訪れた際、2人だけで祝杯を上げた。

中野美代子さん宿泊の大阪のホテルロビーで(2000年)
『西遊記』全十巻のセット箱の上に中野訳3巻を加え全訳刊行

■世界を駆ける“女悟空”、楼蘭探検にも

 中野さんの活動は、もちろん『西遊記』の翻訳だけではない。論文を書けば、評論、エッセー、小説、戯曲と文筆グラウンドが幅広い。私が1998年に北京の故宮博物院を訪れた時に、副院長の机上には、北京に廃墟が残されている西洋庭園を巡るナゾを描いた小説『カスティリオーネの庭』(文藝春秋刊)が置かれてあった。中国でも一目置かれていることを目のあたりにした。

 かつて北大の同僚で飲み友だちだった亡き大朝雄二教授が、アエラの「現代の肖像」の欄(1992年10月13日号)で、中野評をずばりこう指摘している。「狭い枠をはめられるのが嫌いなんでしょう。女ばなれ、男ばなれ、そして孫悟空みたいに枠を超えて自由に飛び回っている」

アエラの「現代の肖像」記事(1992年10月13日号)

 これまでオーストラリアで勤務していたのをはじめ、『西遊記』の生まれた中国には何度も、そして旧ソ連領中央アジアをはじめインド、カンボジア、ベトナム、タイ、インドネシア、イギリス、イタリアなどを駆け回っている。とりわけ89年には、朝日新聞社とテレビ朝日が中国の協力を得て、シルクロードの十字路に消えた幻の王国・楼蘭に「日本学術文化訪問団」(平山郁夫団長)を派遣した際、団員の一人として加わった。

 朝日新聞側の団員だった松村崇夫社会部員(当時企画第一部次長)は、私が金沢支局長時の富山支局長で、飲んだ時には、探検での武勇伝を語っていた。お互いに東京と大阪本社へ異動後、私もシルクロードにかかわることになると、彼がまとめた『はるかな楼蘭』(連合出版刊)を寄贈してくれた。

 その著によると当初、『楼蘭』の作品もある作家の井上靖さんを予定していたが、直前に健康への配慮から断念した。中野さんはその代役だった。まず電話で伝えると、中野さんは「胸がワクワクしますよ」と、即断で応諾したという。松村君が札幌に説明に出向くと、「そんな方の身代わりとは光栄です」とまでいわれ、感激したと書かれている。松村君に当時のことを聞くと「とても楽しく、飲むと豪快な方で安心しました。トイレをどうするのか気がかりだったが、そんなことは後になっての疑問でした」と語っている。

 中野さんは1993年1月から3月まで、NHKの「人間大学」の番組で計12回にわたって講義した。中国民衆のスーパーヒーローの孫悟空がどのようにして生まれたのか。「孫悟空との対話」と題して『西遊記』の物語構造を多面的に語った。主人公・孫悟空たるサルについてのナゾ、三蔵法師の従者における史実との違い、どうして孫悟空が如意棒を持つようになったのか、など興味深く解説した。

 その最終回で、中野さんは現存する最古の『西遊記』(中国・明代の世徳堂本)が生まれて400年余りになり、数え切れない多くの世界の人々がこの小説を親しんできたが、まだ解読されないナゾが山積している、と指摘する。

 三蔵法師を襲う受難の数が八十一難で、その最後が第九十九回の話になっており、それが「聖数九」に還元できるように計算されている。「『西遊記』を真に読むということは人間の民俗的想像力と物語創造力のもっとも根源的な、そしてもっとも普遍的なものを探りあてることになろう」と言及している。

■『西遊記』研究は、永遠に思索の快楽の園

 中野さんは訳書も含めると50冊を超す執筆をしている。と同時に、各国の文献を読みこなすのも並外れている、著書の一つで、1980年(昭和55年)度芸術選奨文部大臣新人賞を受けた『孫悟空の誕生─サル民話学と西遊記』(岩波現代文庫)を書くだけでも200冊以上を読んだという。

 西遊記のナゾ解きが飯よりも好きだが、もう一つ好きなものがお酒だろう。その飲み方は半端じゃない。時間をかけていつまでも続く。とりわけ若い女性を引き連れハシゴもする。大学教授時代からの習癖かもしれないが、いわゆる親分肌なのだ。

 私ともこれまで北海道はもちろん大阪、東京、奈良、山口でも、杯やコップを交わす機会を得たが、中野さんが酔っ払う前に私が酔っていた。奈良では深夜、私がホテルへの帰路、財布を落とし、大阪では三次会で文字通り午前3時まで飲んだが、酔いつぶれるのは私の方だ。これも“女傑”たる証しだ。

 中野さんは、朝日新聞創刊120周年事業にかかわった縁で、朝日サンツアーズの敦煌やアンコールなどのツアーに同行講師をした。添乗した中川良子さんが“女傑”に気にいられたようだ。中川さんは「先生が奴隷数人連れて行くとおっしゃった。始めは何のことやら理解できなったのですが、それが先生の教え子で助教授や講師をされていたり、大学院で研究されていた方々でした。旅行中に毎晩、奴隷の方が飲み会の準備をされ、先生が一般の参加者も誘われ、楽しい旅になりました」と、エピソードを披露していた。

 また中野さんは2001年、薬師寺から三蔵法師・玄奘の骨を祀る玄奘三蔵院に平山郁夫画伯の壁画が奉納された記念すべき法要にも招かれ講演した。

薬師寺の玄奘三蔵法要で記念講演の中野美代子さん(2001年)
薬師寺境内で中野美代子さんと筆者(2001年)

 この中で、中野さんは「西遊記は呉承恩の訳とされているが、複数の道教徒が訳した」と、元代における仏教と道教との対立などを説明。トリックの仕組まれた虚構の世界を紹介。そして「現段階での私の考えで、これからコロッとかわるかもしれない。私はそんなことヘッチャラです」と結び、まだまだ研究の途上であることを強調していた。

 今は亡き大朝教授の言を、再びアエラから抜粋させてもらう。「ただの騒々しいおばちゃんが『西遊記』に出会ってからは一皮も二皮もむけましたね。(中略)自由奔放でスケールが大きい。あの人をこえる人はいない」と激賞する。

 密度の濃かった「西遊記のシルクロード 三蔵法師の道」展後も、懇親が続いた。私の定年から1年後の2005年7月、札幌の中野さんの自宅を訪問した。知事公舎の裏の瀟洒なマンションは予想通り書棚がずらり並んでいた。著書を何冊か手にしていると、「興味があるか」の声。「もちろん」と言うと、「持っていけ」の言葉が返ってきた。その年春、中野訳『西遊記』が刊行されていたこともあり、深夜まで盃を重ねたことは言うまでもない。

札幌の中野美代子さんの自宅書斎(2005年)
本棚の前で懇談の中野美代子さん(2005年)

 2007年には、新宿の京王プラザホテルで、朝日カルチャーセンターの特別公開講座「『西遊記』なおつづく天竺への旅」があり、私が中野さんの聞き役を担当したこともあった。

朝日カルチャーセンターの特別公開講座で聞き手の筆者(2007年)

 中野さんは「『西遊記』は、面白い。『西遊記』を研究することも、面白い。それならば公開、『西遊記』の面白さを伝えることも、面白いではないか」との持論を展開した。

特別公開講座で持論を展開する中野美代子さん(2007年)
特別公開講座後の記念撮影(2007年)

「私にとって『西遊記』は、永遠に思索の快楽の園であり続けるだろう」。中野さんは著書の中でこう語っている。この人にとって、学問も「遊び」のようだ。孫悟空との対話はまだまだ続くことだろう。

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