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老年期少年小説 「誰もいなくなったのはなんで〈6〉」【悪魔を憐れむうた①】

60を過ぎて、いまさらだが
「性格改善」のようなことをしている。
いきづらさといわれる自分をこの年で変えるというのは、
いい年をしてというはじらいや諦めがないわけではない。
しかし、わたしはこれまでひた隠しにしてきたつもりの…
自分の性格を、さすがにいまわのきわになっても持ち続けるのは、
うんざりなのだ…なんとかしたい。

私はある街に一人で住んでいる。
結婚はしたことはない。
異性が嫌いなわけではない。
自分の中に居座る「悪魔」のせいなのだ。

「悪魔」は、いつもは姿を見せない。

彼は、ある種の人間をねらって、
私に彼ら、彼女らに近づくようにいつもささやいてきた。
それは「善良で優しい、穏やかで平和的なひとたち」だ。

私は「悪魔」の誘導に従って、自分のネガティブだったり、
攻撃的な性格を深く閉じ込めた状態で、
彼ら彼女らに網をかける。

特に、文化的な関心がたかかったり、
内向的なそこまで社交的ではないひとたちが多かった。

私は「悪魔」に従って、
その人たちと交流をもつと、
少しずつ深い関係になるように仕掛けた。

トラップにかかった人間と、
私はかなり親密な交際を続けたころ、
「悪魔」は例によって、
自己中心的で恣意的な自分を、
人間関係に持ち込むように強いる。

やがて、彼ら彼女らは、
私の性格につかれてしまったり、
距離をとるようになっていく。

「悪魔」はそのタイミングをのがさず、
関係の中に「問題」が生じるように、
入ってくるのだ。

私から見ると、問題は相手からもたらされていると感じる。
しかし、実際は、いいがかりに近いかたちで、
私は自分を被害者に仕立て上げ、
相手を加害者という図式に当てはめてしまうのだ。


「悪魔」は私に「逆恨み」や
「いいがかり」「逆切れ」をするように、
ネガティブなエネルギーを持ち込んでくる。

関係が壊れるとき、
私は「恨み」の思念や「怒り」のエネルギーを
相手に向けて、自分のネガティブな感情や、
フラストレーションを解放させることになる。

「悪魔」は、そのプロセスが完了すると、
去っていく。
いや、もといた、下腹部からみぞおち、心臓のあたりにすくっている
「樹木」のような煙のような住処にかえっていくのだ。


私は、なぜ「善良で優しい、穏やかで平和的なひとたち」
を狙うのか? それは、攻撃性が弱く、反撃される恐れが少ないからだ。

「善良で優しい、穏やかで平和的なひとたち」でない、
「性悪でしたたかで強い意志力」を持つ人たちは、
反撃された時の危険性が高いからだった。


私は…そうやって、「善良で優しい、穏やかで平和的なひとたち」
をいたぶってきたのだ。

その人たちからの恨みの思念はあるだろうが…
時々は、私へのあわれみの思念を感じることもある…。
絶句する。私が攻撃しているにもかかわらずだ…。


そのような性格の美しい人たちを傷つけてきたことを、
この年で、ようやく後悔している。
どうせなら、「性悪でしたたかで強い意志力」

の人たちと多くのトラブルを起こして、痛い目にあって、
自分を悔いて性格改善を行うべきだったであろう。

自分の卑怯な性格を恥じるしかない。

そんな自分を好きになれるわけもなく、
許すことも難しい。

自分を嫌いであることで、
私はどこへ行っても、最後には人と疎遠になってしまうのだ。

定年後の仕事は思うように見つからない。
蓄えもない…さびしくこのまま老いて死んでゆくことを考えると…
さすがに気が狂いそうになるのだった。


いままで、自分が被害者だと思ってきたことどもは…
ほとんどが自分が発端の問題であったと…振り返りの手帳をつけていて、
気づいてしまった。


あの善良な方々に謝りたい気持ちもあるが…
それでも「自分は悪くない」というプライドというのか…
自分が特別であるといううぬぼれ(それが誤解ということもさすがに気づくようにはなった)も、いまだに解消できていない。

幸せになれる…そう思った瞬間、
「悪魔」は、樹木から出てきて、
幸せをこなごなに砕いてしまう。

そして、勘違いして他人を責めたことで、
自分を激しく責め、ますます嫌いになるという、
悪循環はさらにひどくなるのだった。

今日も、図書館やハローワークで一日が終わった…
相談員や図書館司書以外、誰も話す人がいない…

歩道を歩いていて、ビルの大きなガラスに自分が映る。
怒ったような、泣きそうな顔をみた…
無理に口角をあげてみたが…
みじめな60過ぎの男は、
不機嫌そうな性格の悪そうな顔にしかみえなかった…