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"萌え御朱印"や"イケメン官能絵巻"についての宗教的考察

 愛知県にある浄泉寺の"萌え御朱印"や新潟県にある国上寺の"イケメン官能絵巻"といった、"仏教とオタク文化との融合作"がここ最近SNS上で話題になっています。新しい、是非行ってみたいと好意的に捉える意見もありますが、悪趣味で不快、作品の描写は不適切だとする意見もあり、何人かの現職僧侶から批判的意見が上がっている事も確認しました。

 また、イケメン官能絵巻の国上寺がある新潟県燕市の定例会では、市議会議員から「とんでもない(文化財の)破壊行為」と批判が起こったり、市教委では本堂へ行かないよう小学校長に配慮を求める動きがあるなど、SNSのみならずリアルの方でも懸念が生じているようです。

 では、この2種の"仏教とオタク文化との融合作"は正しい物なのか、間違った物なのか。本記事は社会的適正・TPOなどの議論は別口として、それらを宗教的に見た場合、どうなのかという視点で考察をしていくものになります。


萌え御朱印も普通の御朱印も厳密に言えばアウト?

 今日の仏教では様々な儀式があり、お寺に訪問した事を証明する御朱印集めもその一つでしょう。しかし元々のお釈迦様の教えは、外面的行為に囚われず内面を重視するよう説いています。

この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他の物をよりどころとせずにあれ。(『大般涅槃経』第2章)

 これは弟子のアーナンダから、「お釈迦様の死後は何をよりどころにすれば良いですか」と問われた時にお釈迦様が答えたとされる、自灯明・法灯明というものです。続きが沢山ありますが簡潔に言うと、「私(釈迦)が生きていていても死んだ後も、他人に依存をしたり、物質的なものに囚われたりする事なく自己の内面の安らぎを追求していきなさい。」という趣旨の教えです。

木片を焼いて清浄になることができると思ってはならない。これは外面的な事柄だからである。われは木片を焼くのを放棄して、内部の火をともす。(『相応部』第1巻 一部略)

 "木片を焼いて"とは、護摩行の事をさしています。お釈迦様が生きていた頃のインドでは、火に特別な力があると信じる人々が、木のチップを焚火に投げ入れてあれこれと念じる火炎崇拝を行っていました。これは今の日本に護摩行という名前で伝わり、真言宗や山岳信仰で盛んに行われています。野球選手が毎年冬になるとやるアレですね。しかしお釈迦様はそれ(護摩行)を見て、火をいくら拝んでも奉っても意味が無いから、外面的行為ではなく内面を重視していきましょうという趣旨の教えを説いています。

 仏教の根源的価値観は、「色(形あるもの)などに囚われてはいけない。こだわりを捨てて安らかな内面を得ましょう。」というものですから、物品の所有に関する囚われや形骸化された行為への囚われ、つまり御朱印をコレクションする・させるという事自体がまず引っかかり、萌えていようといなかろうと(あくまでも伝統主義的厳密性を持って言えばという事になりますが)アウトになってしまう可能性があります。ついでに護摩行も。

 また、御朱印は本来写経をした証に貰うものであったとするのが通説であるため、参拝しただけで貰えてしまうというスタンプラリー化した現代の御朱印はそもそも昔の人々からみたら全てアウトかもしれません。


イケメン官能絵巻どころか仏像ですらも伝統を軽んじている?

 イケメン官能絵巻をは、伝統を軽んじているものと感じるかもしれません。しかし日本中のあまねくお寺にある普通の仏像も、それを特別なものとして拝む行為も、昔の人々は伝統を軽んじていると感じていたかもしれません。

 成立初期の仏教は、仏足石と呼ばれるお釈迦様の足をかたどったものや、仏伝図と呼ばれる釈迦の生涯の様子を彫り記した物やなどはありましたが、お釈迦様や観音様の人体を丸ごと作った、今でいう仏像を拝む事はなかったとされています。また、『十誦律』『増一阿含経』『長部経典』には偶像崇拝を否定的に捉えている文言が存在し、それらを裏付けるかの如く、仏教が始まって以後数百年の間、仏像は発見されていません。初期の仏教では偶像崇拝が禁則、または否定的であったとする説が最も有力です。

 イケメン官能絵巻も仏像も、(あくまでも伝統主義的厳密性を持って言えばという事になりますが)仏教を軽んじているものなのかもしれません。


仏像は"仏教とオタク文化との融合作"ならぬ"仏教とヘレニズム文化の融合作"

 仏像が作られるようになったのは、仏教誕生から約600年後と言われています。つまりその説に準ずれば、当時の仏教では"仏像を拝む"という行為は、約600年間続いた伝統を覆す、真新しく非常識的なものです。

 「色(形あるもの)などに囚われてはいけない。こだわりを捨てて安らかな内面を得ましょう。」という趣旨の教えを約600年間広伝統的に広めていたところ、突如あのギリシャ彫刻を生み出したヘレニズム文化がやって来て、「お釈迦様フィギュア」が誕生します。そう、仏像は"仏教とオタク文化との融合作"ならぬ"仏教とヘレニズム文化の融合作"です。それが急速に普及していき、エスカレートをした末にバーミヤン大仏という名のお台場ガンダムのようなものも作られていきます。それ以降仏像や絵に描かれた菩薩様を見て拝んだり、権力を駆使して大仏を作ったりと、人々は徐々に偶像自体に特別な感情を抱くようになっていきます。

 当時の原始的で厳格な仏教徒たちの中には、そのような新しい風習の誕生を不快に思う人がいたであろう事は容易に想像がつきます。「非伝統的だ」「俗物的だ」「教えを軽んじている」と憤慨した人がいたかもしれません。現代の萌え御朱印やイケメン官能絵巻を見てそう思う人がいるように。


外面的行為の正しさを考えだすと途端におかしくなる

 アレもアウトこれもアウトと言いましたが、実の所私はそのように思っていません。上述した内容が完全な答えではないので大丈夫です。

 「本来(外面的行為とは)こういうものだ、ゆえにこうあるべき。」という方向性を持ってしまうと、アウト判定になる可能性のあるものが多く途端におかしくなってしまうという事を、厳密化する事で示そうとしたのです。外見的にこうだから、こう書かれているからと厳密に字義通り考えアウトなのだと判定する事もまた、外面的行為への囚われですから、上述のように全てアウトという見解が正しいとはならないと私は思います。つまり、対象がどのような形態を有していてもそれに囚われる事なく、柔軟に吟味して考えていく事が必要なのではないかと考えています。


お釈迦様の教えを鵜呑みにしなくても大丈夫

 仏教が他の宗教と異なるのは、お釈迦様自身が、「私の言葉であってもよくよく吟味して考えなさい」と説いたとされており、開祖の言葉を全て鵜呑みにできないような仕組みになっている所だと思います。大乗仏教の指導者を多数輩出したナーランダー僧院ではこれがとても重要視されていた為に、より洗練された教学・哲学を生み出したと言われています。

 お釈迦様がAndroidOS、仏教宗派がスマホメーカーのようなもので、SonyやSamsungといったメーカー(宗派)はOS(お釈迦様)を基軸にカスタマイズ出来る状態にあるのです。各々の内面的特性に合った信仰の形を選んで良いと思います。時々細長かったり曲がっていたりする奇妙な形のスマホが発売される事がありますが、萌え御朱印やイケメン官能絵巻とは(現代の仏教全体から捉えると)そのようなポジションの物かもしれません。そのような形が今後一般化していくかもしれませんし、そうはならないかもしれません。

 偶像でも、伝統的でなくても、それによってお釈迦様とのつながりを持ち、安らかになれるなら良いのかもしれません。萌え御朱印長やイケメン官能絵巻が宗教的にとても良くない物だと思ったとしても、全く異なる考えを持っている人もおり、陽転させるような全く違う力が働く事もありえるかもしれません。安易な決めつけを軸に排斥をするのは尚早なのかもしれません。


内面が大切だよね

 何度も言う通り、仏教の根源的価値観は、「色(形あるもの)などに囚われてはいけない。こだわりを捨てて安らかな内面を得ましょう。」というものですから、「この色は駄目だ、色とはこうあるべき。」という趣旨の話をいくらしても意味がないように思えてしまいます。

 そして個人的に、このような"仏教とオタク文化との融合作"を作っている・今後作りたいと思っている方々には、興味を持ってくれた人々とお釈迦様の教えがちゃんとリンクするような形にしてくれたら良いと思っています。見てくれと話題性が目当てでやっていたり、集まった人が誰もお釈迦様の教えに触れられないという事になってしまえば、それが宗教的表現物である意味を成さなくなってしまいますから。





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