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『中田敦彦のYoutube大学』は世の中に悪影響なのか

 オリエンタルラジオの中田敦彦氏(以下、中田氏)が運営する『中田敦彦のyoutube大学』というYoutubeチャンネル。「学び」をメインテーマに据え、歴史・政治・社会問題などを、中田氏の本職であるお笑いのエッセンスを交えた魅力的な解説で世の中に発信するという内容が人気を博しているチャンネルです。しかしながらここ最近、トルコ共和国の初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクを「ムスタファ・タマル」と称する、第二次世界大戦の経緯・時系列の解説に史実と異なる点があるなど、専門家や有識者からその内容に誤りが多いとの指摘があり、少々物議をかもしています。

 全ての意見は上げきれないので多くを割愛しますが、肯定的意見としては、視聴者はそもそも正確性を求めていない、多くの人が興味を持つきっかけを作る事が重要、ファクトチェックは後で個人的に行えば良いといった趣旨のもの。否定的意見としては、付け焼刃の知識で詳細な解説を行うのは不適切、事実誤認に基づくデマの流布は大きな問題、ファクトチェックを他方に求めるのは無責任といった趣旨のものがありました。

 果たして「中田敦彦のYoutube大学」世の中にとって悪影響なのか、それとも良い影響をもたらしているのか。極私的に考察してみたいと思います。



実際に視聴した所、疑問点が複数あった

 まず私自身、中田敦彦氏の動画を作業用BGM代わりに視聴した事があり、その中の禅や仏教を解説した動画において疑問に思う点がいくつかありました。

【仏教を多神教に分類している】

 中田氏は動画内で仏教を多神教に分類していましたが、厳密に言えば諸説ありという状況です。有神論ではないとする見解が多分にあります。仏教は教義において万物の本質は不定的・流動的・相互依存的性質を持っていると説いており、完全に隔てられた存在を認めていません。菩薩や如来といった仏教の尊格は(見かけ上はそう見えても)この世界とは隔てられた絶対的な存在である神の概念とは解釈が異なっていると考えられる事もあります。実際に、チベット仏教ゲルク派のダライ・ラマ14世は、仏教は無神論的な宗教であると仰っています。非常に細かい話ではありますが、現状において仏教を多神教と断定してしまう事は、適切ではない可能性があります。

【空(Synya)を無(Noting)と同一視している】

 禅を解説する動画の中で中田氏は「空というのは無」「Nothing(無)がポイント」と発言し、それを主軸に解説をしていましたがこれは誤りです。仏教における「空」とは、「有」や「無」といった二元的な見地を離れ、万物をあるがままに捉えたものとされています。

 万物は互いに依存して存在しており、それぞれが独立して存在しているわけではない。或いは何もない所から生じる事も、完全に消滅する事もない。或いは形あるものはすべて壊れるなどと称されるように、万物は固定的な実体がなく、かりそめで、移り変わるものという趣旨の説明が(国や宗派により微妙な異なりはあるものの)空(Sunya)を言い表す際に用いられる事からも、決して虚無や非存在を表す無(Nothing)と同一ではありません。


「誤りを広める事」は悪影響

 私は、青二才ではありますが個人的に仏教学をやっている為、中田氏の解説に引っ掛かりを感じ、このような誤りに気が付く事が出来ました。しかしながら、一般的な視聴者が仏教学のややこしい内容に辿り着くのは至難の業でしょうし、中田氏のこれらの言説を引っ掛かりなくすんなりと受け入れてしまうと思います。また私自身も知識深度の浅い分野においては、中田氏の誤りに気が付かず、すんなりと受け入れてしまうかもしれません。中田氏に正確さをどの程度求めるのかは人によって異なるにしても、完全性を重んじる学者・有識者にとってはやはり批判すべき対象でしかないでしょうし、問題視されるのは必然といえます。大きな影響力があるとなればなおの事でしょう。

 私も誤った情報を発信してしまった事があり、そうした過去の反省を踏まえてという事になりますが、完全に誤った情報には全く価値が無く、それどころか有害になります。「情報」すなわち、とある事実ついての知らせ。それ自体が根本的に間違っていれば事実誤認にしかならず、当然広める事に良い影響などありません。キツい言い方をすれば、ホコリをばら撒いているようなものです。従って、興味を持ち、議論するきっかけになれば不正確なままでも良いという趣旨の言説には無理がありますし、誤りを放置したまま広め続ける事には、やはり問題があるのではないでしょうか。単なる感想や予測・考察ではなく、事実に基づいた情報を提供するというスタンスであれば、発信者はファクトチェックを怠らず、情報制度の向上に努め、誤りであるとの指摘があればそれに従い訂正すべきと考えます。(上記のムスタファ・ケマル・アタテュルクの誤った呼称についてはコメント欄で訂正されています)


誰もが日常的に誤った情報にふれている

 私たちに学問を教えてくれた先生達や、ある分野に詳しい知人達が、全員、完全かつ公正で抜け目の無い解説をしてくれたかと言えば、そのような事はありません。学校の授業で先生が話す内容は一語一句教科書通りではないですし、解説が誤っていたり、荒かったり、変に政治的な思想を交えた話になっていたり、誇張・脚色されていたりという場面もあったのではないでしょうか。また、ある分野に詳しい知人から披露されたうんちくを後でググってみたら、全然違っていたなどという事もあったのではないでしょうか。私事ですが昔、情報処理を教える先生が、「リムーバブルディスク」の事をずっと「リムバーブルディスク」と解説していてプププとなった事があります。恐らく全国の教師の皆さんが行う授業を全てYoutubeにアップロードしたら、どこかしらで指摘され、その分野を極めている人達から怒られるのではないかと思います。

 毎日目にする報道も、過度に偏っていたり、事実と異なる点があったりと、私たちは日常的に誤った情報、あるいは偏った情報、あるいは荒いレベルの情報にふれており、それに気が付いたり、気が付かなかったり、調べたり、調べなかったりという事をしています。よくよく考えてみるならば、中田氏の発した情報だけが特別という訳ではない事が分かってきます。


自習は尊い

 中田氏の動画は悪影響だ、必要無いんだと切り捨てた所で、知識・教養がつくとも、世の中が陽転するとも思えません。発信者がファクトチェックを怠り、付け焼刃の知識で適当に語ったり、誤った情報を放置するのは適切ではありませんが、同時にある程度受け手自身の力で情報を精査する「自習」は重要であるといえます。

 日常的に自分と接する「教える人」全員から、完全かつ公正で抜け目の無い解説をしてもらう事は現実的に不可能であり、たとえ「教える人」に自分よりも多くの知識があったとしても、鵜呑みにするのは適切とはいえないでしょう。それが極端に行き過ぎれば、カルト的な方向性を持ってしまいます。その「自習」を出来る限り意識する、またはその結果判明した事実を正確に人に伝え、陽転させていく事は大切だと私は思います。

 上述の仏教の解説でいえば、私は過去に、「空」と「無」が混同されている内容の書籍を読んだ事があり、それを読んだ時点では中田氏と同じく、同一の概念なのだと思っていましたし、そのように人に話してしまった事もありました。自分自身が詳しく知ろうとした、すなわち自習をした事によって、その解釈が不正確であると気が付きました。そしてnoteの記事にしたためるという形で皆さんに伝え、こうして少しだけ陽転させることが出来ている訳です。


中田氏の有する「知名度」と「話術」の価値

 ある分野に興味があり、考究したいと思っている場合や、ある分野のプロフェッショナルを目指している場合、詳しい書籍や研究論文などを読むことはあります。しかしながらそうでない分野に関して、一般的にそこまで突き詰める事はありません。せいぜい試験に出そうなものを覚える程度で、試験が終われば、学校を卒業すれば、再びそれらに出会う事は無くなり、必要もなくなり、少しづつ忘れていってしまいます。中田氏は、知名度と拡散力によって多くの人に広く学びの場を提供してくれるのですから、その点に関しては価値があるのではないでしょうか。

 また、本職のお笑いで鍛え上げられた中田氏の、ユーモアに溢れ、他者の興味・関心を引き付けて離さない話術にも、価値を感じざるを得ません。情報精度の高い専門家の講義・解説であるからといって、それが面白くて頭に入りやすいものであるとは限らず、ボーっとして眠くなってくる事はありますし、眠くなかったとしても、もし興味が逸れ、一旦頭の中で講義と全く関係の無い変な妄想が始まってしまえば、それを打ち消すのは中々難しいと思います。少なくとも私はそうです。

 その道を究めた学者が解説すれば良いという意見もあるかと思いますが、学者の方々に対し、「Youtubeで面白く話せ!」などと注文をつけるのはさすがにおこがましいですし、やはり話のプロである中田氏の技術は侮れず、中田氏だからこそ、Yotubeで面白く話すという役割が務められるのだと思います。禅や仏教の動画に関して言えば、達磨大師と武帝との伝承上のやりとりをコミカルに表現する部分には物凄く引き付けられましたし、以前テレビ朝日の『しくじり先生』でピタゴラスの生涯について解説していた際は、まるでひとつの喜劇舞台を見ているかのように面白く、数学が苦手な私も『ピタゴラスの定理』に愛着を持つことができました。私が大学の講義でそのような状況になった事は、一度もありませんでした。


まとめ

 「『中田敦彦のYoutube大学』は世の中に悪影響なのか」という主題ではありましたが、本質的に言いたかったのは、「不正確なのだから面白かったとしても駄目だ」「面白いのだから不正確であろう問題ない」といった具合に中田敦彦のYoutube大学に対して二元的判定を下す事にとらわれるよりも、事象をありのままに捉えた上で、微細なレベルで、私たちの置かれている社会環境のなかで中田氏のチャンネルはどのような位置にあるのか。どんな長所があるか、短所があるかと考えていくほうがより意義深いのではないか。また、中田氏含め私たち自身も、事実を正確に人に伝え、共有ていく事が大切ではないか。という事になります。



本編は以上となりますが、ここから先には私の幼少期に教師からの暴力・虐待を受けた経験を軸に『中田敦彦のYotube大学』を見て感じた、感想的な駄文的な何かを掲載しています。ここまで閲覧して頂きありがとうございました。

感想的な駄文的な何か

 私は発達障害気質があり、学級に適応できず、幼少期に教師から目を付けられ、暴力・虐待を受けました。具体的には、作文をうまく書けなかった罰として放課後強制的にグラウンドに連れていかれひたすら走らされる、ミスや忘れ物をした時に折れそうになるほどの力で鼻をつままれたり、首をしめられたりする等です。外向きは非常に人当たりの良い教師であったために親は絶賛しており、その苦痛を理解してはもらう事はできませんでした。そういった事が重なり、私は「学ぶ」という行為そのものを恐怖と捉えるようになり、面白さを捉える事ができなくなりました。

 大人になってから、NHKでやっていた韓国の時代劇に出てくる儒学者たちが盛んに引用する「論語」がふと気になり、書店でたまたま見つけたので立ち読みをしてみました。その時にようやく、私は学ぶ事の面白さを知りました。学ぶというのはこんなに面白かったんだ、ワクワクするものだったんだと心の底から思いました。陰鬱な感情に支配され、私が捉える事のできなかった「学ぶ事の面白さ」を、孔子が教えてくれたのです。この気持ちをもっと前に知る事が出来ていたらと考える事が幾度もあります。

 中田氏には、そうした陰鬱な感情を吹き飛ばし、学ぶ事の面白さを気付かせてくれるような話術が備わっていると私は思います。もし、私が教師から暴力・虐待を受けていた時に、学ぶことを恐怖と捉えるようになりかけた時に、中田敦彦のYotube大学に出会っていたなら、もしかすると、今とは少し違った人生になっていたのかもしれません。

 学者・有識者の方々は大変尊い存在であり、その知識は宝の如しであります。しかしながら中田氏を軽蔑・嘲笑する方々が、幼少期の私に「学びの面白さ」を伝えてくれる事は果たしてあったのだろうかと思えてしまいます。誤った情報の拡散については全く擁護しませんが、個人的には、学ぶ事の面白さを提供するという、中田氏のそうした良い部分までも無効化し、叩いてしまうのは少々心が痛むしだいです。全ての人々が、学びの面白さに出会える事を願います。以上。


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