あれよという間に夏至となり

 6月もなかなかに愉快な展開で日々唸っております。
この6月は、私の誕生月でもあり普段よりも自分中心軸に動きを決めたい期間です。とはいえ、なかなかうまくいかないのがこの世の面白いところ。
 ちょうど50歳の去年書いた日記のような文章を読み返すと、この1年で随分大人になった私(笑)に気が付きます。論語では、五十にして天命を知るのだそうですが、現在の生活を見ると、うっすらと感じるものがあります。

何が変わったのか。

それは、ベクトルの方向であります。

若かりし頃は、ひたすら拡大の方向に向いていたベクトル。行ったことが無いところへ行く。やったことが無いことをやる。会ったことの無い人に会う。私の好奇心は、大きく外側を向いていました。
ベクトルの振れ幅が大きければ大きいほど醍醐味がありました。それに伴って、私の感情の起伏も大波小波。
それはそれで、とても楽しくて刺激的です。今でも大好きでワクワクします。
が、あるキッカケからそのベクトルの方向を変える方向に舵を切りました。現在の私の興味は、ベクトルの振れ幅をどれだけ少なくできるのか、に傾いています。1本の綱の上で、いかに揺れを吸収しながら平常心でいられるのか、に向いてきています。
この作業が思った以上に面白くて、これほど彩り豊かだとは想定外なのです。
ほぼ毎日大なり小なり予定外のことが降りてくる最近。年寄りの体調や、子供のしでかすアクシデント、お寺の仕事も予定が有るような無いような。それに上乗せするように自分でやりたいことを乗せていく作業は、バランス芸に通じます。ジャグラーになれそう。
それをこなすために絶対に必要なのは、私自身に無駄な力が入っていないことで、余計な引っ掛かりが無いことです。私の中の”こうあるべき”と”こうじゃないといけない”の感覚は、労働しないとろくでなし、だとか、予定が入っていないのは寂しい人、だとか、ある種の価値観が私の中に巣くっていて、自分の時間割を堅苦しく固めていたのですが、この数年でようやくそれを外そうと思えるようになりました。
そうすると、すべての作業が自分のやりたいことになりました。自分のやりたいことなので、納得ゆくまで出来るのです。納得ゆくまで怠けられるのです。
 50年生きてくると、目の前に展開される出来事に見覚えがあることもちらほら出てきて、以前は失敗したから今度こそリベンジじゃー、みたいなこともあり、その受け身がとれるのも自分自身がゆらりとできる状態にあるからなんだろうな、とわかってきました。

 ということで、遅ればせながら、私という人間がこの家族には必要な人間であり、この家族の存在はこのお寺に必要な存在であり、そして・・・、と、私といろんな世界がつながっている感覚が多少なりとも感じられてきた51歳のお誕生日でした。

歳をとるのも面白い、なんて思いはじめた最近です。


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