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Gymnopédies No.1

ロマンチックな気持ちにはとてもなれなくて、私はなぜか祖父が亡くなった日に入った冷たい白い布団のことを思い出した。

うまく眠れなかった。

なんでじいちゃん死んだんだろう、と兄は天井を見つめたまま言った。
煙草の吸いすぎじゃない、と私は言った。
祖父の死因は膵臓癌だった。

じゃあじいちゃんが死んだのはタバコを売ってる人のせいだね。
うん、そうだね。
きっとそうだよ。
タバコを作ってる人が悪い。
許せないね。
うん、そうだね。

本当のことを言うと、5歳そこそこだった私たちには、煙草を吸うということも、煙草を売ると言うことも、人が死ぬということも、よくわからなかった。当時祖父のことは嫌いではなかったが、それほど彼のことが好きだったわけでもなかったと思う。住んでいる場所が離れていたし、そんなに頻繁に会えなかったこともあって、少し怖いとすら思っていた気がする。とにかく記憶の中の祖父は、とっつきにくくて、厳格な人だった。
それでもこんなに悲しいのは何故だろう、と冷たい布団の中で延々と考えた。

祖父が死んだ日の夜、豆電球だけついた8畳の和室の広間に私と兄は静かに横になっていた。暗闇がだんだんと明るくなり、そしてまた暗くなっていった。闇が収縮して、そしてまた広がっていく。8月の終わりだったのに布団は冷たいままだった。
本当は兄に身を寄せて眠りたかったが、それも違うような気がしてやめた。
開け放たれた網戸越しに、蝉と蛙の鳴く音が永遠のように聞こえた。
棺桶の中の祖父の冷たさが怖かった。きっとあの感覚を自分が冷たくなるまで忘れない。

10年ぐらいのちに、祖父の残した血と遺品に、私と兄は大いに傾倒されていくことになる。彼が生きていたらどんなに良い友人になれただろう、と今になってよく妄想する。
擦り切れた本の隙間にある殴り書きの乱暴さは、私のそれと全くと言っていいほど同じだった。写真も音楽も芝居も映画も小説も骨董も、彼の遺品を探れば探るほど、自分の中に流れる血の色のことを考えてしまう。彼の愛したレコードを、兄はそのまま抱えて自分の部屋に連れて帰った。
私の顔は、母のそれにも、父にも兄にも似ていないが、祖父にはよく似ているらしい。

そして私も兄も、今ではたっぷりと煙草を吸っている。2人とも祖父と同じような死に方をするかもしれない。
ただ、私たちそれぞれに孫ができるとは考えにくいが。

一度だけ祖父母の家の天井下の物置に忍び込み、祖父と祖母の新婚旅行のアルバムを盗み見たことがある。
白黒のフィルムに映る祖母は銀幕スターのように美しく、その写りや表情から、祖父が祖母のことを本当に愛していたのだとわかった。そしてたまにページの端に映る祖父もとても美しかった。

彼らの過ごした美しい時代のことを思って、祠の中で少しだけ泣いた。
私はこれからも同じような夜を幾度となく過ごすだろうと思う。


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今朝、20年前に死んだ祖父の夢を見た。
彼が死んだ夜のことを今でもたまに思い出す。

memento mori

彼のことを一度でいいから写真に撮りたかった。

渡部有希


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