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それでもきっと、ここで生きる


#どこでも住めるとしたら


26歳独身、一人暮らし暦はもうすぐ5年目。
だけど私は生まれてからずっと地元に住んでいる。



私が生まれたのは、首都圏にはあるけれど程々に都会で程々に田舎な街だった。

政令指定都市でその中心部までは電車で一本。複数路線が乗り入れているから交通の便は良い。けれど街にはショッピングセンターみたいな大型施設は無くて、駅前にはファーストフード店やファミレスが一件ずつと、ラーメン屋さんや個人経営のご飯屋さん。あとはスーパーやコンビニ、銀行のような生活に必要な施設は揃っている。少し歩けば小さな都会があって、そこに行けば雑貨や家具のお店もある。

幼稚園には歩いて通った。
仲良しのお友達とは家が近かったから毎朝一緒に登園していた。通り道にある家の小さなフェンスで、毎朝隠れんぼになっていない隠れんぼをするのが私達の定番。

小学校は少し遠かった。坂の上にある学校だったから毎朝頑張って坂を登った。
幼稚園からの友達は沢山居たし、新しい友達も出来た。今思うと、一番思い出に残った学校かもしれない。学校の後は放課後クラブのようなもので遊ぶこともあったし、近くにある祖父母の家で遊んで、仕事を終えた母と地元のスーパーに買い物に行った。そのまま祖父母の家にお泊まりもした。

1年生の頃は担任の先生と上手く行かずに泣いたこともあった。でも友達は大好き。
2年生の時、廊下で友達と大声で歌っていて先生に怒られた。この頃までは運動が好きで、休み時間にはドッジボールしたり、夏休みの水泳教室を楽しみにしていた。、
3年生から始めたマーチングバンドで最初は上手くいかず、遅刻ばかりしていた。でも、マーチングバンド効果なのかリコーダーが上手く吹けるようになった。
4年生の時に妹が入学してきて、妹を待って遅刻しそうな事に泣いたりもした。担任の先生かクイズや推理パズルが好きで、当時青い鳥文庫の小学生ミステリにハマっていた私はウキウキした。
5年生になって、何故か目立ちたい欲が出たのか副部長や学級委員に立候補してみたりした。休み時間に図書室にある山のような本から好きな本を読んだり、友達と薦めあった。
6年生ではそれまでずっとインドアクラブだったのに校内の流行りに乗ってバスケットボールクラブを選んだ。運動神経は悪いから活躍は出来なかったけど、楽しかった。バスで少し行ったところにショッピングモールが出来て、親を説得して卒業遠足、なんて言って遊びに行った。

6年生で引っ越すまで、当たり前だけど私はずっと同じ通学路を歩いていた。
6年生の途中で引越しが決まった。引越し先は小学校を越えた先、坂の上にある祖父母の家。最寄り駅も学校も変更無し。中学の学区だけは超えてしまったけれど、もう入学間近だったのもあって元の学区の中学に進学が決まった。本当は歩いて5分のところに正規の学区の中学があったけど、仲の良い子は殆ど元の中学に通うから、そっちの方が嬉しかった。

私の通っていた小学校の校門から道に沿って桜が植えてある。毎年その桜を見て、花びらキャッチしながら登下校するのが好きだった。元の家から中学に通っていたらここは通らないから、これもラッキーだったかもしれない。

小学生時代の通学路を逆走するようにして、私は中学に通った。正直、前半はかなり辛かった。

厳しくて合わない吹奏楽部。家が遠いから朝練の日に起きるのは大変。中学の学区のうち半分くらいの地区は富裕層が多くて楽器を買って貰えるのに、私だけ学校のボロボロの楽器。
部活はサボる事が多かった。
ある日は途中まで行ったのに学校に行けなくなって、そのまま部活を退部した。

それまでは吹奏楽部の子と仲良くしてたけど、別の子と一緒にいるようになった。そしてオタクになった。深夜アニメにハマり、元気は出たけど寝不足だし太った。親に「図書館に行く」とと嘘をついてカラオケに行ったこともある。本当に図書館に1日篭もる日もあったから、疑われることもなかった。

中学3年生の時、念願だった塾通いを始めた。小学の時から「塾に通ってる」ってかっこいいと思っていたから。
塾から家までの最短距離はちょっと道が暗いから、遠回りして明るい大通りを通るのが約束。結局家の周辺は暗いから同じだと思うんだけど、なんてちブツブツ思いながらたゃんとルールを守って塾から最寄り駅までの長ーーい大通りを歩いた。

高校は最寄り駅から電車で一本のところを選んだ。アルバイト先は通っていた塾近くの飲食店。
家がある地域は本当に家ばかりでアルバイト先が無かったので、何をするにしてもとりあえず坂を降りるのが大前提。

元々親に言われて始めたアルバイトだったから人見知りの私はとにかく胃が痛かった。高校生になったからか最短ルートで帰るようになったけど行きも帰りも泣きそうになって、逆に遠回りもした。
居場所が欲しい、と思った私は通っていた塾に戻った。アルバイト代から賄えるのは週ひとコマが限界だったけど、慣れた場所は心地よかった。

バイトに慣れた頃、3年生になって部活を引退した私は大学受験用に塾を変えた。たぶん発破をかけていたのだろうけど、「箱根駅伝は学歴順でスタートするべき」「センター試験で隣の人が具合悪かったらライバルが一人減った、ラッキーだと思え」という講師が好きになれなくて、人として尊敬出来る人が居るバイト先に通い続けた。模試の後にバイトが当たり前。十八歳を超えたら閉店まで働けるようになって、制服でバイトに行って帰りに補導されかけた事もある。そんな事をしているから大学は結構な勢いで落ちた。とはいえ元々志望校自体少なかったし、その受験料も殆ど自分で出していたから良いか、の気持ち。

そうして大学四年間、ちょっと掛け持ちをしながらもやはり地元でのアルバイト中心で生きていた。
そして大学卒業が迫った頃、思い付きで私は一人暮らしを決めた。

元々家を出たい気持ちはあった。ただ流石に高校卒業の段階で援助無しに暮らせるほどの財力は無かったし、地元を出る必要性が無さすぎて結局ずっとそこに居た。
でも家を出るなら今だと思った。バイト狂いだったのでお金はあった。

でもこの時、「地元から出る」考えは私には無かった。

卒業より少し早いタイミングで家を出るからまだアルバイトを続けること、初めての社会人上手くいく自信がなくて、どうせバイト先に泣きつきに行くと思ったこと(大正解)、大学の途中から推しが出来たので、オタクするには交通の便が良い地元は都合が良かったこと。

想定外だったのは初期費用はともかく家賃の事を考えたら、住む地域が実家近くでなければならなかった事。そこから駅よりはちょっとお高い。

こうして私は実家徒歩5分の距離で一人暮らしを始めた。
とはいえ住み慣れた土地なので別に何も変わらない。

ただし問題がひとつ。更新の度に実家で親にサインを貰わなければならないこと。

無知な私はそれを全く考えずに契約して、2年目の更新時に青ざめた。胃を痛めて数時間考え込み五分で実家に帰り五分で実家を出て疲れて寝込んだ。

次の更新までに引っ越す、そう決めた。
この時は別に、地元を出ても良いかなと思っていた。
職場の都合的にそう遠くには行けないけれど、もうアルバイト先に行くことも無いし、ここに残る理由は『電車が2本あって楽』くらい。

というわけで地元含むいくつかの候補地で引越し先を探し……結局また地元に引越した。今回の条件は『家賃保証会社で契約できる』ことだね。でも何故か知らないが家賃が安くて間取りも条件通りで1番気に入ったのが地元だった。わざわざ都市の中心にあるデカい不動産屋さん行ってエリア広げたのに。不動産屋さん曰く、『内見の反応でここだなって思いました』との事。

というわけで26年目も、そしてたぶん27年目も私は思い出の詰まったこの地で生きている。

子供の頃から通うスーパーは今でも私のメインスーパーだし、最寄り駅は改築したけれど相変わらずラッシュ時はやけに混雑して、夜になると酔っぱらいが寝ている。

子供の頃からちょっとずつ変わってるはずの景色だけど、ずっと一緒に居るからあんまり変わったようには感じない。

特別遊べるわけでも華やかでもない、でも便利。
そんなこの街で私は生きてきた。

そしてたぶん、ずっと生きていく。





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