日記・容姿いじりと面白さの認識論

「お前、最近口が悪すぎるよ」

そう本気で注意するトーンで友人Bに言われた。やるせなかった。君たちの知性を信じてリスクを取ってるのに、分かってもらえないんだ。その上、自分が正義なのだと勘違いし矮小化された加害被害構造を決めつけている。悲しかった。

友人Bのその発言は、ふざけてウインクしてきた友人Aに対して自分が言った、「なんか友人Aって惜しいよな」という言葉に向けてだ。

文脈上、ルックスをいじる発言であることは間違いない。だが、友人Bは注意する際、自分がこの発言をチョイスするまでの過程の構造が見えていたのか?甚だ疑問である。

この「口が悪い」状況を生み出したのは3人だ。
1人目は、「口が悪い」ことを発言した自分。
2人目は、「口が悪い」発言を誘導した友人A。
3人目は、その発言に「口が悪い」とラベルを貼った友人B。
悲しいことに、アクターである3人の中でいじりへの認識にズレがある。

いじりとは差別と紙一重であるのだから、「口が悪い」とされる発言をしたこと自体が自分の非だ。
だが、何もないのに言う訳がない。

今回のトリガーはウインクして見つめてくるというボケをしてきた友人Aだ。
まずそのボケ自体が面白くないのだが、面白くするための返しが必要だと自分は認識した。

そもそも人の美醜なんて言及すべきではないものだし、それぞれの人の好みでしかない。
その中で友人Aは「自らがウインクすることが面白い」という認識の下でボケてきている。ならばウインクというかっこいいとされる行為とそのアクターとの間にズレが生じていないとボケとして成立しない。つまり友人Aはブサイクだという認識であることを示すツッコミをしなければボケが破綻してしまう。

NONSTYLE井上に対するもののようにセオリー通り「ブサイクがかっこつけんな!」とツッコもうかと思った。しかしブサイクというワードは時代的にもう危険すぎるので却下だ。ぺこぱのようにスカすことも考えたが、それも否定が当たり前であってこそだ。

否定するニュアンスを含めつつ、事実ではなくあくまで自分の認識の問題だとして処理される言葉を探した。その結果が「なんか惜しいよな」だった。

これに対して友人Aが「誰が言ってんだよ!」や「お前もだろ!」や「どこがだよ!」と適当に返してくれれば、クローズドなルックス差別としてネタとして消費され、「差別する人」というボケをした自分がちょっと損しただけで、友人Aはスベリから脱せたはずだった。

なのに友人Aは曖昧に笑っただけだった。受け身を取ってくれないと話が違ってくるぞ。そう思ったと同時に、友人Bが「口が悪すぎる」と割って入ってきた。おいおい待ってくれ。

自分のボケツッコミの技量不足もあるが、発端は友人Aが自発的にかましてきた、自らのルックスをネタにするという拙いボケにあるのに。

でも考えてみれば彼がそういうボケをするのも悲しいことだなと思う。自分から見た彼は別にブサイクでもなんでもないと思うし、まあ若干ふくよかではあるかな、くらいである。ふくよかなのも人間の本質的な価値を左右するものではないし。
問題の本質は、彼の認識だ。
彼は家族の中であろうことか豚をもとにした呼び名で呼ばれている。それは親愛の情なのだろうが、ルックスや体型をいじる前時代的な感覚が彼の家族の中に残っているのだろうな、との印象を受けてしまう。その環境の中で笑いを取るために、自らのルックスをフリにしたボケをするようになったのだろう。だがそれはもうこの時代では、周囲にリスクを負わせるボケなのだ。

彼をそうさせた彼の家族、ひいては彼の家族をそうさせた社会やマスメディアには責任がある。
しかしそれをどうすることもできないから、せめて彼をスベリから救うために、アウトだがより強いボケ「差別する人」という手段をとったのだ。

なのにその構造を理解せず、自分のことをストレートに差別している人だと認識した友人Bには、はっきり言ってがっかりした。
そんなの文脈を見る努力すらせずに切り抜きだけでSNSで批判しあってる愚かな人々と一緒じゃん。
そんな人たちの前では自分はもうメタ的な差別ボケはできないなという諦めを感じた。

というか、彼らは俺のあらゆるボケをボケだと認識出来ていないのではないか?と怖くなった。そういうコンテクストを読み解く力があるという信頼がなくなった。

その後、みんなで話している時に友人Aが顔芸で笑いを取ろうとした瞬間があった。それまでの自分なら、なんとかそれを拾おうとしていたが、もうそんな価値を感じられず、無視した。
彼の小スベリを全員が見殺しにして、場は流れていった。自分がやらなかったら、誰も損する役割はしないんだな、と思った。つまり彼のボケ自体がもう時代にあってないのだ。損するリスクを背負ってでもそこに付き合うのはもうやめだ。

考えてみれば、自分がルックスいじりをするのは友人Aに向けてだけだった。なぜならそんなの面白くなる可能性が薄い負け戦だから。なのにそこに踏み込んできたのは、友人Aが誘導してきていたからだ。もっと自分に技量があればどうにかしてやれるのかもしれないが、そんなセンシティブな領域での戦いを強いてくるボケにはもう乗ってやれない。それで自分が損してきていることを、友人Bなどの周りが理解してくれていないことが分かってしまったし。

マイルールとして、自分がポリコレ的にアウトだと分かっていながらそれをボケツッコミに使う相手は、自分に言われてもノーダメな人、つまり世間的な地位や立場が自分よりも上の人のみだ。反論する余地がない相手に使うのはただのハラスメントである。

今回、対等な立場である友人Aに対してはマイルール上はセーフだった。なのに反論してくれないから、差別した人が叩かれてオチるというところまでいけなかった。その上で、本当にそう思ってる訳じゃないことを理解してくれる知性を信頼して言ってきたのに、周囲はそうじゃないようだ。ならばもうそこに労力を割く価値はない。

友人AもBも自らは「JKとHしてえなあ」みたいなボケをするくせに、今回の構造には気付いてくれないのか。それも本気で言ってる訳じゃないと周りが認識してくれているから成り立ってるボケなのに。

ハイコンテクストな構造的な面白さを楽しめると思っていた場がそうじゃなかったことが、残念だ。
だが、自分をちゃんと注意してくれる友人がいること自体が大きな財産だ。
それに、いい機会だったとも思う。自分がそこを諦めれば、彼は小スベリを続けることになり、いずれそういうボケをしなくなるだろうから。我々はもう、ルッキズムの共犯関係から脱するべきなのだ。

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