「子育ては生き地獄」から考える人の個性とは
上の子、長女が1歳の頃、彼女の超弩級の夜泣きに毎夜苦しめられました。
「結婚は人生の墓場、子育ては生き地獄」という言葉を身に染みて実感したのです。主に後者の方ですが(前者は未だわからない)。
ニュースで、幼児虐待とか、子育てに疲れてとか見聞きすると、嫌悪感は感じず、あーわかるわかる、その気持ちわかるぞーと共感するようになりました。
実は、このあと夜泣きの苦労について詳しく書いていたのですが、1500字も書いたあたりで話の本質と関係ないことに気づき削除しました。それほどだったのです。
要は、娘は夜泣きっ子であったに対し、下の息子は全く夜泣きをしない子だったということを書きたかったのでした。
さて、そんな子どもたちが成長するとどうなったか。
娘は欲望をストレートに表し、それが叶わないと知ると機嫌が悪くなるような子になりました。家族で出かけると、だいたい半分くらいの時間は娘がむくれている時間でした。
叱られても言い返すので親子の言い争いはいつも修羅場化していました。
一方、息子はかなり淡白な子となりました。
欲しいものがあっても、それが手に入らなくても我慢ができる子でした。
彼が親にたてつくことは皆無でした。叱られても言い返してきたことはゼロだったかもしれません。
小学校の頃から他の親御さんたちから、いつも冷静な子と言われていました。
子どもたちには、映画と本に関しては全部お金は出すからと言っていたところ、娘はその特典をきっちり使っていましたが、息子は年に1回あるかないかくらいでした。
娘は学生時代に2回の語学留学とワーホリからの海外流浪(北中米〜東西欧?よく知らない)で、積極的に1年留年をしていました。現在、彼女は社会人2年目ですが、もうすでに1回転職しています。
一方で息子は、高校時代は帰宅部、今は特に理由なく大学での1年留年が決まっている状態です。ようやく音楽という好きなものを見つけて毎日ギターを弾いているようですが。
これだけくっきりと違うと、人のパーソナリティは生まれた時からほとんど決まっているのだなと思わざるを得ません。
逆に言うと、どんな育て方をしようがおそらく変えられないものは変えられないのでしょう。
さてこの2人は何が違っていたのか。
性格、パーソナリティ、というか個性の違いを分けたのは何なのか。
確か以前に、個性は「選ぶこと・決めること」に違いが現れると書いた覚えがあります。どの記事だったか俄かに思い出せませんが。
つまり、この服を選んだ、この本を買った、この学校に行くことにした、ここに住むことにした、この友人と仲良くなりたいと思った、などなどの選択の歴史が個性なんだと。
自分なら選ばないなという選択肢を、違う個性を持つ他人は選ぶのです。
それが個性なんだ。
そして何かを成した人は、その選択肢が常人離れしていた。
誰もが選ばないことを選んだ。
だからその人は常人とは違うところに行けたのだろうと。
そんなことを書いたと記憶しています。
では、何が「選ばせ、決めさせ」ているのか。
その源泉は何なのか。
ここで子どもたちの夜泣きから考えてみました。
娘は何かが不快だったから毎晩毎晩訴えて泣いていたのでしょう。
一方で息子はその不快に対して、泣くほどの不快さを感じていなかった。
2人を分けたのは、不快への感度だったのではないでしょうか。
娘はちょっとした不快にも耐えられない。
器質的に考えると、コルチゾールのようなストレス物質が多く出る体質なのかもしれません。
しかし息子は少しの不快を何とも思わない。
ストレス物質があまり出ないのかもしれません。あるいはそれを相殺できる機序があるのかも。だから堪えられるのです。
娘にとって世界とは、明確に不快なもの、快なものに分けられているのでしょう。
だから彼女は、自分が快と感じる方向へ進んでいくのです。
端から見ると、強い意志でやりたいことをやっているように見える。
彼女はただただ不快を避けて快に向かっているだけなのです。
一方で息子にとっては、多くの状況が不快ではないのです。
特に何かを変えないといけないほどの状況じゃないのでしょう。
個性とは、快不快への感度の違いなんだ。
あれ。このフレーズは以前も書いたような気がするぞ。
ま、いいか。
夜泣きから切り込んだのは今回が初めてのはずだ。
この超弩級の夜泣きについて、多くの人に話をして、これほどの苦労をしたんだ、こんな夜泣きはなかなかあるまい、みたいな自慢話をしていたところ、1人だけ同じレベルの体験をしたという人がいました。
それはボクの母親でした。
「あーあんたとそっくりや。いっしょや。いっしょ」
うーん。この世界は「快」ばっかりなんだけどなあ。それではまた。
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