痔 ・ 恥の文化 ・ 歴史認識
先日いつものようにRカードを提示したら、ある別のポイントカードはありませんかと大手薬局チェーン店の若い女性店員が聞くのです。
もう何年もRポイントを付けてくれてたのに。
「あれえ。いつの間にか変わったのですね」
「いえいえ。前からですよ」
その時ボクは不覚にも思ってしまった。
もうこの店に二度と来るまい、と。
そう、不覚にも。
後から調べると3月下旬にこの薬局チェーン店は、ポイントサービスをRポイントから別のポイントに鞍替えしたようなのです。
Rグループの翳りがこんなところにも現れている。モバイル事業なんかに手を出すからだ。
しかしボクは15年どっぷりR経済圏の人です。Rカードマンです。
ただ、もうこの店に来るまいと思ったのは、ポイントが付かなくなったからではありません。
ボクはそんなに尻の穴の小さい人間ではないのです。
ここで言う「尻」とは、実際のボクのお尻ではなく、慣用句の尻ですね。
タイトルの一文字目がそっち方面なので、この後も「尻」の慣用句で攻めるつもりだなと勘の良い人なら予想したでしょうけど、いつも品の良いボクがそんなことを何度もするはずがありません。
ボクの品の良さはさておき、なぜ薬局に来たかと言うと、プログラミングに没頭しつつその現実逃避にnoteへ駄文を書き散らかしているとボクの上半身の体重の大部分が大臀筋に密着している椅子座面からの反作用重力となってボクの消化管ターミナルへ圧迫荷重される事態を回避するのが困難な状況として長時間継続することが否応ない血行不良を招くことを認めざるを得ない現状がその周辺へ由々しき鬱血と炎症を伴って疼痛と掻痒に苛まれる凄絶な辛苦を克服せんと希求して止まなかった訳なのでした。
要するに長く座り過ぎて痔になってしまい、薬を買いに来たということです。
そう、「痔」とはなるべく直接的に「痔」と書くのを避けつつも医学的に「痔」を一般的にも「痔」と理解できるようかつ婉曲的にも「痔」としながら逆説的に「痔」を事務的かつ情緒的にも「痔」らしく表現したくなるほど屈辱的に「痔」という疾患は恥ずかしいのです。
今抑圧していた「痔」が決壊しました。
そしてボクが買おうとしていた薬の名前は「オシリア」。
うーん「オシリア」。
恥ずかしげもない無邪気なネーミングがさらに恥ずかしさを増幅させます。
なのでボクは果断の勇気を振り絞り、不退転の覚悟を胸に抱き、恥辱の名の軟膏を手に握りしめながらレジに向かったのです。
実を言うと2日前にもいざ購入せんと果敢に来店していたのですが、ぐずぐずと決心がつかず、別に今日でなくてもいいかと一旦踵を返していたのでありました。
そんなこんなの優柔不断の逡巡と不撓不屈の決断が背景にあっての冒頭の会話だったのです。
「いえいえ。前からですよ」
なるほど。
ポイントシステムが変わってから2ヶ月も経っていないのに「前から」ということは、この若い女性店員は先月の4月に入社したばかりなのでしょう。
彼女にとって、Rではないポイントのサービスがデフォルトでした。すなわち最初からです。いつの間にかではありません。彼女からすると「前から」であり、間違っているのはボクなのです。
そして彼女は薬剤師になったばかりでしょう。薬学部は入るのも難関ですが、6年制で留年率が高く卒業も難しいのです。つまり受験勉強を含めると少なくとも7年もしくはそれ以上もの辛い勉強を続けてきたはずです。
そしてようやく難しい国家試験にも合格し、晴れて大手薬局チェーンに入社できました。安定して高い収入が約束されています。人生安泰です。万能感に満ち溢れていることでしょう。
そんな前途洋々の若者が、間違い侵したみすぼらしい初老男を否定したくなる気持ちはわからなくもありません。
しかしその発言は不用意でした。
万能感があったからこそ、不用意になったのかもしれません。
まだまだ社会人になりたてで尻が青いのですね。
ここで言う「尻」とは、現実の彼女のお尻、、、
あっ!
え、えーと、そう、痔は恥ずかしい。
オシリアという薬の名前も恥ずかしい。
そしてもう有効ではない落日のポイントカードを堂々と差し出してしまって、さらに恥ずかしい。
オジサンがうら若き女性の前で二重三重の痴態を晒し内心は悶絶していました。
だから「いつの間にか変わったのですね」と言う発言は、この感情の行き場と救いを求めての心の発露だったのです。あるいはむしろ苦し紛れのうめき声だったかもしれません。
この時ボクは彼女から「ええ、おっしゃる通りなのです。さぞかし残念なことでしょう。ご心痛を拝察し、心からの同情を申し上げますわ」という共感と慈愛と憐憫に満ちた優しい言葉をかけられ、心を癒され救済されることをほのかに期待していました。
しかし彼女は、そこへ追い打ちをかけるかのごとく不用意に、いや、冷徹無慈悲に言い放ったのです。
「いやいや違う違う。いつの間にかだと。何をほざいているのか。ずっとずっと前からだ。有史以来そうなのだ。アホなのか。この痔持ちの老いぼれめ」と。
やや正確さに欠けますが、ボクにはそのように聞こえたのです。
ボクは深く傷つきました。
こんな店に二度と来るまいと思ってしまったのは無理もないでしょう。
しかし冒頭で、ボクは「不覚にも思ってしまった」と書きました。
これについては、もう少し詳しくボクの心の動きを追ってみましょう。
「恥ずかしい」で思い出しました。以前、日本語の「恥ずかしい」には、照れくさい意味(embarassed)と、罪を恥じる意味(ashamed)の両方が共存していて、日本人は照れくさい感情と罪を恥いる感情を区別できていないと書きました(「なぜ日本は恥の文化なのか」)。
痔の恥ずかしさは、もちろん罪悪ではありません、ただの照れくさい感情です。
しかしその感情は罪を感じている感情との区別がつかないので、後ろめたさや悪事を働いていることと同じ様に感じてしまうのです。
自分には非があり、それを隠したい思いに駆られてしまっているのです。
何かを隠したいということは不自然なことであり、脳の活動としては難しい情報処理を強いられています。
恥ずかしいということは、そんな精神状況なのです。
そこへ「いや違う」という否定の矢が飛んできました。
人は否定されるとどうなるか。
もちろん良い気分にはなりません。嫌悪感を抱くでしょう。
ただし通常であれば、嫌悪の感情を抑制することができました。
心にやましいことなどない余裕のある状態であれば冷静を保つことができたはずです。
脳科学的に表現すれば、新しい脳である前頭葉が本能的な古い脳の大脳辺縁系を制御できていたはずでした。簡単に言えば前頭葉が理性、大脳辺縁系が感情です。
いつも通りなら前頭葉が難なく嫌悪の感情を抑えつけることができていました。
しかしその時ボクは恥辱にまみれ、後ろ暗く、よこしまな悪事を働いていると錯覚している状態でした。「心」つまり脳活動に余裕などなく、前頭葉による大脳辺縁系への抑制がかろうじて維持できているような状態でした。
だから平時は怒らないような何気ない否定の言葉が胸に突き刺さった時、理性の前頭葉が瞬間的に過負荷に陥り、感情の大脳辺縁系に対する抑制ができなくなりました。
まるで家電製品に大電流が流れ、ブレーカーが落ちて暗闇になったような状態です。
その刹那の暗闇に乗じて、本能の大脳辺縁系から烈火の情動が突沸し、憤怒と怨嗟のあまり「うぬう。許せん。二度と来るまいぞ」という思考に至ったのです。
高潔で沈着、品性の塊のようなボクにあるまじき感情の揺動でした。
また一方、社会的側面を考えると、客は店員から慇懃に接してもらって当然という甘えや慢心があります。さらに客という立場は、通常は否定されることには慣れていません。油断があります。
客と店員の関係がこじれると、どうしても客が怒りやすい土壌があるのはこのためでしょう。
ボクとしたことが「こっちは客だぞ。客を否定するのか。たかが店員の分際で」と傲慢にも思ってしまったのです。
礼節を知り慎み深く、虚心坦懐なボクとしたことが。
そんな脳科学的かつ社会的な心の痛痒があっての「不覚にも、二度と来るまいと思ってしまった」であったと理解していただけたかと思います。
さて、人が言い争いをしているとき、怒りの感情が強い方が、実は自分に非があると無意識的に感じていると思っています。
自分に非があり、後ろめたいからこそ、そこを突かれて感情のコントロールができなくなっているのです。
否定されても、自分が正しいと信じていれば冷静でいられるはずで、強い怒りの感情は湧き起こらないでしょう。
人同士に限らず、国家間で論争する時にも、この考えは通用すると思っています。
領土問題や歴史認識で意見が食い違ったりしているときなど、ヒステリックになっている方や苛烈な言葉を用いている方ほど、実は自分側に非があることを無意識的に感じているのです。
具体的に、どこと、どこが、どうで、どうだから、どうだ、などとは言いませんが。
そう、だからボクは言いたい。
全国津々浦々の薬局の店員はどうか温かく丁重に接客してくれと。
痔や育毛剤など、人前で買うのを躊躇する薬や日用品を買いに来た客に対しては、特に気を遣って、客の言っていることを迂闊に否定しないでくれと。
その客は、疾しい思いで情緒が不安定になっていることを心に留意してくれと。
そう言えばディズニーランドの接客極意として、客の言うことを無下に否定したり禁止したりするような言葉を用いず上手に対処しなさい、というものがあると聞きました。
「〜してはいけません」とは言わずに、「お客様、あちらに行けば〜できます」といった風に言い換えるのだそうです。さすがです。
そうだ、人に対してお願いばかりするのじゃなくて、自分も人を無闇に否定しないよう心がけよう。
言下に否定せず、ひとまず聞いて、共感したり褒めたりしよう。
否定したくなっても、何か別の建設的なアイデアや道筋を提案するようにしよう。
そんなこんなを思った次第でした。
タイトルの「痔・恥の文化・歴史認識」はまるで、世界的大ベストセラーにして名著の「銃・病原菌・鉄」みたいでした。
このタイトルからすると、痔から日本の精神文化の考察へ展開し、延いては国際間の闇に鋭く斬り込みそうな壮大なスケール感がありました。
それが、なんとただ薬局の店員の皆様に向けての懇願をしたり、健気で殊勝な決意表明をしたりで、どんどん卑近で矮小な話になっていきました。
それこそ尻すぼみってやつですね。
ここで言う「尻」とは、本当のお尻ではなく、、、
予想通りのオチとなりましたとさ。それではまた。
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